常陸・小田氏とは? わかりやすく解説

常陸小田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 22:38 UTC 版)

小田氏」の記事における「常陸小田氏」の解説

通字として「知」または「朝」(いずれも読みは「とも」)、室町時代以降は「治」(はる)を代々用いている。南北朝時代には南朝方の一翼として活動し室町時代には鎌倉府により関東八屋形に列せられ、関東支配体制一翼担った名家であった。しかしその後佐竹氏周辺諸氏圧迫され戦国時代に入ると、小田氏の力は大きく衰退し常陸南部かろうじて支配する大名にまで成り下がっていた。16世紀前半名君小田政治現われ結城氏古河公方などと争い所領一時拡大し最盛期迎えたが、政治の子小田氏治北から佐竹氏、南から後北条氏という二大勢力に領土侵食され上杉謙信佐竹義重などに時に臣従し、時に翻弄されながら、領土侵食奪還繰り返していた。地元民には慕われ幾度領土追われても、その都度地元民支援してくれるために、すぐに旧領復帰成せていた。 永禄12年1569年)、氏治は佐竹氏侵攻受けて居城小田城失い天正11年1583年)には佐竹氏に完全に臣従した。そして天正18年1590年)、豊臣秀吉小田原征伐に参陣ぜずに所領奪還の戦を行っていたことを理由所領没収され結城氏佐竹氏分割されてしまう。氏治は秀吉臣従を願うが叶えられず、その後は娘が側室となっていた結城秀康客分となり、嫡男次男)の守治とともに越前下向した。その後は、嫡男の経治が武蔵移り吉治、頼治、義久朝宗、朝益、朝泰と小田流の剣術家として続いた一方人質として北条氏仕えていた氏治の庶長子友治は小田原落城後、秀吉仕え先祖の「八田」姓に改称し朝鮮出兵などで活躍するが、豊臣秀次連座して改易その後はやはり結城秀康次いで松平定勝仕えたその子義治豊臣秀頼仕え大坂の陣にも参戦した後、福島正則客将として招かれたが、正則所領広島にて死去した

※この「常陸小田氏」の解説は、「小田氏」の解説の一部です。
「常陸小田氏」を含む「小田氏」の記事については、「小田氏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「常陸・小田氏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「常陸・小田氏」の関連用語

常陸・小田氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



常陸・小田氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小田氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS