市制施行から住居表示実施まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 05:30 UTC 版)
「小川町 (鹿児島市)」の記事における「市制施行から住居表示実施まで」の解説
1888年(明治21年)に公布された市制(明治21年法律第1号)に基づき、1889年(明治22年)2月2日に官報に掲載された「 市制施行地」(内務省告示第1号)によって鹿児島が市制施行地に指定された。3月5日には鹿児島県令第26号によって鹿児島郡のうち50町村が市制による鹿児島市の区域と定められ、4月1日に市制が施行されたのに伴い、鹿児島郡50町村(山下町、平之馬場町、新照院通町、長田町、冷水通町、上竜尾町、下竜尾町、池之上町、鼓川町、稲荷馬場町、清水馬場町、春日小路町、車町、恵美須町、小川町、和泉屋町、浜町、向江町、栄町、柳町、易居町、中町、金生町、東千石馬場町、西千石馬場町、汐見町、泉町、築町、生産町、六日町、新町、松原通町、船津町、呉服町、大黒町、堀江町、住吉町、新屋敷通町、加治屋町、山之口馬場町、樋之口通町、薬師馬場町、鷹師馬場町、西田町、上之園通町、高麗町、下荒田町、荒田村、西田村、塩屋村)の区域より鹿児島市が成立した。それまでの小川町は鹿児島市の町名「小川町」、それまでの和泉屋町は鹿児島市の町名「和泉屋町」となった。 1901年(明治34年)から4年間にわたり行われた鹿児島港の拡張工事に伴い生産町及び小川町の陸地の一部が切り取られ鹿児島港の港内水域となった。1901年(明治34年)には鹿児島駅の開業により鹿児島駅周辺に位置する小川町には商店が立ち並ぶようになり、1924年(大正13年)時点では小川町には40軒余りの商店が存在していた。1956年(昭和31年)には商店数が194軒にまで増加している。 明治時代後期から昭和時代にかけては大火が度々発生しており、1907年(明治40年)10月2日に和泉屋町を火元として45戸を焼失、1957年(昭和32年)2月18日には小川町を火元として23世帯を焼失し、死者13名の被害を出した。 また、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月27日には、アメリカ軍の爆撃機によって鹿児島駅周辺の一帯に対して爆撃が行われ、鹿児島駅に停車中の列車に爆弾が直撃したほか、駅周辺の車町、恵美須町、和泉屋町、柳町にも被害が及び死者420名、負傷者650名を出す惨事となった(鹿児島大空襲)。
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