市制施行から第二次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 23:58 UTC 版)
「下荒田」の記事における「市制施行から第二次世界大戦まで」の解説
1888年(明治21年)に公布された市制(明治21年法律第1号)に基づき、1889年(明治22年)2月2日に官報に掲載された「 市制施行地」(内務省告示第1号)によって鹿児島が市制施行地に指定された。3月5日には鹿児島県令第26号によって鹿児島郡のうち50町村が市制による鹿児島市の区域と定められ、4月1日に市制が施行されたのに伴い、鹿児島郡50町村(山下町、平之馬場町、新照院通町、長田町、冷水通町、上竜尾町、下竜尾町、池之上町、鼓川町、稲荷馬場町、清水馬場町、春日小路町、車町、恵美須町、小川町、和泉屋町、浜町、向江町、栄町、柳町、易居町、中町、金生町、東千石馬場町、西千石馬場町、汐見町、泉町、築町、生産町、六日町、新町、松原通町、船津町、呉服町、大黒町、堀江町、住吉町、新屋敷通町、加治屋町、山之口馬場町、樋之口通町、薬師馬場町、鷹師馬場町、西田町、上之園通町、高麗町、下荒田町、荒田村、西田村、塩屋村)の区域より鹿児島市が成立した。それまでの下荒田町は鹿児島市の町「下荒田町」となった。 1899年(明治32年)には、下荒田町が「荒田町」に改称し、1911年(明治44年)に再び「下荒田町」に改称している。また、同年9月30日には鹿児島郡西武田村の大字武(現在の武)のうち飛地となっていた天保山(現在の天保山町の北半分)の区域を鹿児島市に編入し、下荒田町に編入された。1934年(昭和9年)2月には、下荒田町に属していた天保山の区域が分割され天保山町が設置された。 1945年(昭和20年)4月8日にはアメリカ軍の爆撃機によって下荒田町や田上町、平之町、加治屋町、東千石町、新照院町が爆撃され、死者587名、負傷者424名の被害が出た。また、8月6日には下荒田町、原良町、薬師町方面に空襲が行われた。
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