川上座の建設
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総工費25000円をかけた劇場は木造とレンガ作りの3階建て。木造部分はペンキが塗られ、上部は黄色だった。舞台の欄間には全体に菊の模様が彫られていて、その中に『Theatte Kawakami』と英語で記されていた。 従来の芝居小屋と一線を画す、ヨーロッパ風建築は工事が難航した。上棟式は建築許可から約2年後の1895年(明治28年)3月3日に行われた。高櫓から球灯と万国旗を吊るし幔幕を張り巡らした会場では、立食形式で食事が振る舞われている。西園寺公望、金子堅太郎、野村靖、磯部四郎らの代理人ほか数百人が列席。森田思軒、福地桜痴、依田學海らが祝辞を述べた。 落成式は1896年(明治29年)6月14日に行われ、鮫島員規海軍少将、奈良原繁沖縄県知事、そして西園寺公望、井上勝、金子堅太郎の代理人など3000人近くが招待された。招待客の接待には新橋、柳橋などの100名あまりの舞妓が務めた。 こけら落し公演は7月2日から7月26日まで新狂言『日本娘』が上演された。公演のチラシには石版摺の俳役の肖像を載せ、これも当時としては目新しく評判を取った。 川上座の総坪数は212坪。収容定員は桟敷席が150人、平土間が572人、大入場354人となっていて、立見席は設けなかった。そして「川見」「重の井」という2軒の茶屋があった。料金は一等席に当たる桟敷席は60銭、二等の平土間などは30銭、三等の三階席は10銭。そして茶屋の手数料は一等15銭、二等は10銭であった。 しかし洋式の劇場はこれまで日本では建てられたことがなく、慣れない中で建設された劇場は多くの不備を抱えることになった。まず冷暖房設備が無いため冬季は劇場内の冷え込みが厳しかった。また観客席に傾斜を設けずに平らにしてしまったため、肝心の舞台が見づらくなってしまった。また窓を小さくして日光が入りにくくした結果、舞台環境が演劇に合致しないようになってしまった。そして建物の電気容量にも問題を抱えていた。
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