岡田鯱彦(おかだ・しゃちひこ)
本名岡田籐吉。1907年(明40)、東京生まれ。東京帝大国文学科卒。東京学芸大教授から、のちに聖徳短期大学教授。一時、大河内常平が弟子だったことがある。
1949年(昭24)、「天の邪鬼」が「日本ユーモア」の懸賞で次席入選。
1949年(昭24)、「妖鬼の呪言」が、新人コンクール作品として一席入選し、「宝石」に掲載。
1949年(昭24)、「噴火口上の殺人」が十万円懸賞一等入選作品として、「ロック」に掲載され、1950年(昭25)には第3回探偵作家クラブ賞短編賞の候補となった。
1950年(昭25)、「紅い頸巻」が「宝石」百万円コンクールA級で予選通過入選により、「宝石」に掲載。
また、1950年(昭25)には「新青年」に掲載された木々高太郎主宰の文学派座談会「抜き打ち座談会」に本格派としてただひとり参加した。
1950年(昭25))に「宝石」に「」を発表し、1951年(昭26)には第4回探偵作家クラブ賞長編賞の候補となった。
1957年(昭32)に刊行した「」が、1959年(昭34)に第12回日本探偵作家クラブ賞の候補となる。
江戸川乱歩、島田一男、香山滋、渡辺剣次、楠田匡介、中島河太郎、千代有三、荻原光雄、鷲尾三郎とともに「十人会」を結成していたこともある。
1993年(平5)、呼吸不全のため死去。
岡田鯱彦
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1907年12月28日 - 1993年8月4日)は、日本の国文学者、推理作家、小説家。本名は、岡田藤吉[1]。
(おかだ しゃちひこ、経歴
東京生まれ[1]。東京物理学校(現 東京理科大学)を卒業した後、1935年第一高等学校卒、東京帝国大学文学部国文科に入学し、1938年卒業。1940-45年名古屋陸軍幼年学校の教官を務めた。第二次大戦後、東京青年師範学校教授[要出典]、1949年から東京学芸大学教授[1]、1971年定年、聖徳学園短期大学教授[2]、淑徳短期大学教授[1]。
作家としての活動もあり、『源氏物語』や『雨月物語』といった古典に取材した作品がある。1949年、ユーモア小説「天の邪鬼」が懸賞に当選[1]。同年に『宝石』誌の第3回懸賞募集に応募した「妖鬼の呪言」が短篇懸賞の選外佳作となり[1]、また「噴火口上の殺人」が『ロック』誌の第2回懸賞募集に1席入選し[1]、同誌に掲載された。1950年、紫式部と清少納言の推理比べを描いた長編「薫大将と匂の宮」を発表[1]。同年に「紅い襟巻」を『宝石』の長編懸賞に投稿したほか[1]、俠盗・鯱先生が不可能犯罪に挑む連作シリーズを執筆していた[1]。1962年で創作は途絶え[1]、1973年に活動を再開したものの、1976年に捕物帳連作を最後に再び沈黙した[1]。
著書
- 『聖僧黙山和尚』(岡田藤吉名義、人文閣) 1943
- 『紅い頸巻』(東方社) 1955
- 『幽溟荘の殺人』(東方社) 1955
- 『裸女観音』(東方新書) 1955
- 『噴火口上の殺人』(東方社) 1955
- 『薫大将と匂の宮』(東方社) 1955、のち改題『源氏物語殺人事件』(春陽文庫)、旺文社文庫 (1980)、原題で国書刊行会(1993)、扶桑社文庫(2001)、創元推理文庫(2020)
- 『樹海の殺人』(春陽堂書店) 1957
- 『黒い太陽の秘密』(東光出版社、少年少女最新探偵長編小説集) 1958
- 『地獄の追跡』(和同出版社) 1958
- 『予告殺人』(同光社出版) 1958
- 『黒い断崖』(同光社出版) 1958
- 『あやかしの夜 エロチック・ファンタジイ』(あまとりあ社) 1958
- 『犯罪の足音』(光風社) 1958
- 『黒い疑惑』(同光社出版) 1959
- 『樹海殺人事件』(小説刊行社) 1960
- 『断崖殺人事件』(小説刊行社) 1960
- 『殺意の渦』(昭和書房) 1961
- 『恐怖の影』(青樹社) 1963
- 『岡田鯱彦名作選』(河出文庫) 2001
- 『岡田鯱彦探偵小説選』全2巻(論創ミステリ叢書) 2014
関連項目
脚注
固有名詞の分類
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