山本鼎の自由画教育運動とは? わかりやすく解説

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山本鼎の自由画教育運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:28 UTC 版)

キミ子方式」の記事における「山本鼎の自由画教育運動」の解説

版画家画家山本鼎やまもとかなえ)はフランス留学から帰国した後、1918年大正7年)に長野県小学校で「児童自由画奨励」という講演行い、「自由画教育運動」を起こした山本鼎自由画運動と共に臨画代わり写生全国的に行われるようになり、「クレヨン画」の流行となった。 この運動画家であった山本鼎フランス留学帰りロシアの子ども達の明るい絵を見て日本臨画教育現状憂いたことから始まった山本は子どもの創造性奪っていた臨画廃して画題自由にして指導もなるべく自由無干渉にすべきだとして、明治以来伝統廃して図画教育を子ども自身の目と手による認識表現をめざす美術教育なければならない主張した山本は「図画教育美的情操教育である。感情豊かにし、趣味高尚にするための教育機関である」として、「美術教育とは、また自由画教育とは、愛を以て生徒創造処理する教育である」「自由画教育教師第一資格は、美術上の知識に富むことでも、水彩画油絵描けることでもなく、ただ、生徒らの創造愛する心、それがあれば良いのである」と主張した山本は「学齢期前の児童の画は大抵おもしろいが、それが学校へ通うようになると皆悪くなってしまう」ことを問題視し、それが「臨本教育」というお手本書写させるだけの授業にあると考えた山本当時使われていた教科書新定画帖』を「様々な約束示範されていて、生徒らに知恵技巧自由な発露おもうさま邪魔している」、「従来図画教育はまったく見ることの喜びに導かなかった。知恵の自由も技巧の自由も妨げて、子どものうち早くすでに装飾本能萎縮させてしまった」と批判した山本1921年から1942年まで私立自由学園美術教師となって自由学園での実践的研究から得た内容交えながら著述活動続けた山本主張頑固な教育学者からの反撃にもかかわらず全国教師急速に普及した

※この「山本鼎の自由画教育運動」の解説は、「キミ子方式」の解説の一部です。
「山本鼎の自由画教育運動」を含む「キミ子方式」の記事については、「キミ子方式」の概要を参照ください。

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