山本鼎の自由画教育運動
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「キミ子方式」の記事における「山本鼎の自由画教育運動」の解説
版画家・画家の山本鼎(やまもとかなえ)はフランス留学から帰国した後、1918年(大正7年)に長野県の小学校で「児童自由画の奨励」という講演を行い、「自由画教育運動」を起こした。山本鼎の自由画運動と共に、臨画に代わり写生が全国的に行われるようになり、「クレヨン画」の流行となった。 この運動は画家であった山本鼎がフランス留学の帰りにロシアの子ども達の明るい絵を見て、日本の臨画教育の現状を憂いたことから始まった。山本は子どもの創造性を奪っていた臨画を廃して、画題を自由にして指導もなるべく自由無干渉にすべきだとして、明治以来の伝統を廃して、図画教育を子ども自身の目と手による認識と表現をめざす美術教育でなければならないと主張した。山本は「図画教育は美的情操の教育である。感情を豊かにし、趣味を高尚にするための教育機関である」として、「美術教育とは、また自由画教育とは、愛を以て生徒の創造を処理する教育である」「自由画教育の教師の第一の資格は、美術上の知識に富むことでも、水彩画や油絵が描けることでもなく、ただ、生徒らの創造を愛する心、それがあれば良いのである」と主張した。 山本は「学齢期前の児童の画は大抵おもしろいが、それが学校へ通うようになると皆悪くなってしまう」ことを問題視し、それが「臨本教育」というお手本を書写させるだけの授業にあると考えた。山本は当時使われていた教科書『新定画帖』を「様々な約束が示範されていて、生徒らに知恵や技巧の自由な発露をおもうさま邪魔している」、「従来の図画教育はまったく見ることの喜びに導かなかった。知恵の自由も技巧の自由も妨げて、子どものうちに早くすでに装飾の本能を萎縮させてしまった」と批判した。 山本は1921年から1942年まで私立自由学園の美術教師となって、自由学園での実践的研究から得た内容を交えながら著述活動を続けた。山本の主張は頑固な教育学者からの反撃にもかかわらず、全国の教師に急速に普及した。
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