山本飼山
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山本 飼山(やまもと しざん、1890年(明治23年)7月23日 - 1913年(大正2年)11月5日)は、思想家、社会運動家。本名は山本 一蔵。

生涯
1890年(明治23年)、東京に生まれる。8歳の時自由民権運動の壮士であった父を失い、母とともに長野県松本市にある亡父の生家に寄寓。その後、飼山の母は彼が12歳の時に、彼を残して再嫁している。
小学校時代より無教会派キリスト教の感化を受け、旧制長野県松本中学に在学中、キリスト教的社会主義に共鳴し、とりわけ木下尚江の思想に関心を示した。15歳の頃、日露戦争の際に、非戦論の演説をし、停学処分を受けている。その後、早稲田大学文学部に入り、石川三四郎・渡辺政太郎を介して、大杉栄・荒畑寒村・幸徳秋水らの知遇を得、『近代思想』に評論を寄せるようになる。その一方で、クロポトキンの『相互扶助論』の翻訳にも着手している。これは未完成のまま終わっている[1]。
その思想は、無教会派キリスト教より始まり、以後、社会主義・無政府主義・老荘思想・絶対他力本願思想と足早な遍歴を経ている。一方で、明治天皇の病気には深い衝撃を受け、日記によると
七月二十三日(火)雨-曇。陛下の大患に心痛む。今日は予の誕生日なり。過去に十三年の数奇なる運命を思うて感深し。噫(ああ)、この秋は雨か嵐か予測を許さぬ予の前途かな
と記されている。
1913年(大正2年)、早稲田大学を優等で卒業したが、危険思想の持ち主として職につけず、同年11月5日早朝、大久保で貨物列車に投身自殺した。
その早過ぎる死は同世代の青年に深い衝撃を与え、翌大正3年、友人たちの手で『飼山遺稿』が上梓された[1]。
木々高太郎は小説『笛吹』の中で、彼を登場させ、その思想の一部を紹介している。
脚注
参考文献
- 『笛吹』(『木々高太郎全集3』所載、朝日新聞社刊)より
- 『飼山遺稿』深澤白人(岩十) 編 泰平館書店 1914年(大正3年)6月
復刻版 湖北社 1980年(昭和55年)3月
- 『定本 飼山遺稿』西田勝・上條宏之・荻野富士夫 編 銀河書房 1987年(昭和62年)10月
山本飼山
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この物語の主要人物。畑井俊二から由利雄に送られたパンフレット「渋面」に、トルストイ批判の一文を寄せていたことから由利雄の関心を惹く。畑井の紹介で、文通をすることになり、郷里へ帰る際に実際に会うに至る。朝子は、飼山と由利雄の交流をラヴレターのようだ、と語っていた。その面会した3月26日のことが問題になり、試験漏洩事件で疑われた由利雄を救うため、地元の新聞社に掛け合うが、そのことがかえって由利雄を苦境に陥れることになる。上京後の由利雄の専検高校受験、及び第一高等学校の家庭教師を同級生の中から工面し、自身も国語漢文を担当する。晩年はアナーキストを捨て、宗教に復縁しつつあった。早稲田大学文学部英文科を卒業し、由利雄たちが転居した後、疎遠になり、その年の11月5日、鉄道自殺をはかり、死去。
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