山への築城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 16:09 UTC 版)
日本において初めて山に軍事的防御施設が築かれるのは、弥生時代の高地性集落である。その後、飛鳥時代から奈良時代にかけて、唐や新羅の侵攻に備えて西日本各地に古代山城が築かれた。 中世には、鎌倉時代後期から南北朝時代までに後醍醐天皇の率いる反幕府勢力が幕府に抵抗するため、山への築城が始まったようである。その初例と考えられているのは、楠木正成の千早城や赤坂城(上赤坂城、下赤坂城)、または山岳寺院「金胎寺」を利用した金胎寺城である。その後、南朝もそれらに倣って各地に山城を築いた。武士が山麓の平地に居館を、背後の山に山城を築き、戦闘になると山城に立て篭もるといった様式が一般化したといわれている。 戦国時代になると戦いが常態化したので、山上の城にも恒久的な施設を建てて長期の戦いに堪えられるように備えた。戦国後期には、山上の主曲輪に領主の居館を構え、中腹に家臣たちと人質としてその一族を住まわせた。 16世紀中期以降の合戦においては、大軍を山の上に集結させ位置的優位性を利用して、平野部の敵を威圧し、戦局を有利に導くドクトリン(”山城運用ドクトリン”)が確立されたとする指摘もある。敵が攻めてくれば防御を固めて防ぎ、敵が後退するのを見はからって山上から出撃する戦術は、当時の一般的な運用法=ドクトリンだったと推測される。山城運用ドクトリンの始原は川中島の戦いにおいて川中島周辺に運用された山城群とされており、1570年の志賀の陣では浅井・朝倉連合軍が比叡山に軍勢をあげて織田信長軍を窮地に追い詰め、1582年の山崎の戦いでは羽柴秀吉軍が自軍の勝利を確実にするため天王山を敵に先がけ占領し、1583年の賤ヶ岳の戦いでは山上における用兵を巧妙に行った羽柴秀吉軍が勝利し、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康に天下を献上したのは、関ヶ原を見下し堅固に城郭化された松尾山へ布陣した小早川秀秋にあり、”山を制する者は天下を制す”ということが指摘されている。
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