山を越える増援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/13 16:46 UTC 版)
ナポレオンとフランスの指導部はバイヨンヌとの連絡が断たれることを恐れ、またすでに反乱軍の手に落ちたビスケー湾へのイギリス急襲を危惧したため、はじめはスペイン北部での行動を優先した。6月中旬、ラサール将軍(英語版)がカベソンの戦い(英語版)で勝利したことで、事が簡単に進んだ。バリャドリッドのスペイン民兵が鎮圧され、カスティーリャ・ラ・ビエハの大半を制圧したことで、サヴァリは南部での行動に着目し、デュポンとの連絡の再建を決定できた。ナポレオンは北部の脅威のほかにはアンダルシアの制圧も重要視していた。アンダルシアの郊外に住み、より伝統的な住民たちがジョセフの統治に反発するのが見えていたからだった。6月19日、ヴィーデル将軍(英語版)率いる第2歩兵師団(英語版)がトレドから南へシエラ・モレナ山脈を越えて派遣され、山脈をゲリラから守り、カスティーリャ=ラ・マンチャを制圧しつつデュポンとの連絡に成功した。 ヴィーデルは兵士6千、軍馬700、大砲12門、そして途中で増派されたルワーズ将軍(フランス語版)とリジェ=ベレー将軍(フランス語版)の援軍で出発した。平原を行軍するヴィーデル軍は妨害されず、脱落者が現地人に殺害されるに留まった。6月26日に山脈に到着すると、ヴァルデカーニョス中佐率いるスペインの正規軍、密貿易者、ゲリラの混成軍が大砲6門で「王の門」(スペイン語: Puerta del Rey)を守備していた。ヴィーデルは17人を失いながら守備軍を撃破、ラ・カロリナへ進んだ。次の日、この王の門を南から攻撃しようとするデュポン軍に会い、これでデュポン軍とマドリードの連絡が1か月の中断を経て再建された。
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