屏風の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 02:24 UTC 版)
江戸時代には観光目的としての旅が一般に広まり、個人的な旅に関して記録した旅行記・絵図・地図・地誌類が多く成立した。甲州道中の旅を描いた絵地図類には江戸幕府の作成した『甲州道中分間延絵図』(文化3年(1809年)をはじめ、滑稽本の仮名垣魯文『身延参詣甲州道中膝栗毛』(安政4年(1857年))や十返舎一九『身延山道中ノ記 金草鞋』(文政2年(1819年))、旅日記では黒川春村『並山日記』(嘉永3年(1850年))、『津久井日記』、霞江庵翠風『甲州道中記』(慶応2年(1866年))、渋江長伯『官遊紀勝』(文化13年(1816年))などが知られる。『甲州道中図屏風』もこうした旅の大衆化に伴い成立したものであると考えられている。 甲州道中(甲州街道)は近世初頭に幕府の手により整備され、江戸から甲府を経て信濃下諏訪(長野県諏訪郡下諏訪町)で中山道と合流し、38の宿場が設置された。江戸期には甲州道中を通じて多くの文人が通行し、旅日記などを残している。 屏風は六曲一隻で寸法は縦176.0センチメートル、横368.0センチメートル。着色。作者・年記は不詳で関連資料も皆無であるが、作成年代に関しては後述の理由から、幕末期の嘉永4年(1851年)から慶応3年(1867年)の期間に推測されている。 双方の縁に後筆で「身延詣図右」「身延詣図左」と記されており、これに従い左右を区別すると、右隻に27場面、左隻に21場面が描かれている。各絵の寸法は、横幅がそれぞれ異なるが、縦は27センチメートルで共通しており、本来は巻子状であったものが屏風に仕立てられてものと考えられている。また、各絵は付箋が存在するが図のみで場所の特定が困難なものも見られ、本来的には詞が存在していたものと考えられている。 絵画的には、江戸後期の土佐派の影響が指摘されている。
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