渋江長伯
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出自 渋江長伯(しぶえちょうはく)は、太田玄達惟長の四男として宝暦10年(1760)生まれる。安永7年(1778)渋江陳胤(よしたね)の養子となり、同8年4月8日家督相続、寄合医師、300俵10人扶持。 長伯は安永8年(1779)8月、10代将軍徳川家治に拝謁。寛政4年(1792)2月2日昌平校入門。寛政5年12月20日奥詰医師。(中略)。天保元年(1830)4月19日没。享年71歳。墓所は新宿区河田町の月桂寺。 業績 1. 江戸の幕府薬園の管理 寛政7年(1795)頃以降 2. 蝦夷(えぞ)地への動植物採集行 寛政11年(1799) 3. フランス人ショメールの百科事典蘭語版の購入と和訳(厚生新編)を進言し、実行される。また、ガラス製法を試し、硝子器を作る。 4. 甲州、駿河、伊豆、相模への採取行 文化6年(1809) 5. 綿羊飼育と毛織物の製造を幕府に進言、文化14年(1817)頃清国から輸入した綿羊を巣鴨薬園で飼育、繁殖させる。 6. 腊葉標本の作成 寛政11年(1799)に採集した蝦夷地産植物の腊葉帖「北遊草木帖」から文化9年(1812)に作成された「壬申花帖」まで、日本人が作成した腊葉標本として最も古い時期に属するものが多数残っている。
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