尾北古窯跡群とは? わかりやすく解説

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尾北古窯跡群

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/14 07:58 UTC 版)

尾北古窯跡群(びほくこようせきぐん)または尾北窯(びほくよう)は、濃尾平野北東部の庄内川以北、愛知県春日井市小牧市犬山市丘陵地帯に分布する古窯跡群の総称。南東の猿投古窯跡群と並び、古代尾張において須恵器やそれに続く瓷器灰釉陶器緑釉陶器)、などを焼いて一大生産地となったことで知られる。 座標: 北緯35.0度17.0分50.3秒 東経136.0度59.0分18.5秒 / 北緯35.297306度 東経136.988472度 / 35.297306; 136.988472

尾北窯
※座標は中心的な支群である篠岡古窯跡群47号窯展示施設の位置

概要

尾北古窯跡群は、小牧市篠岡(現在の桃花台ニュータウン)に分布する篠岡古窯跡群を中心として、犬山市今井、赤坂、春日井市神屋、下原、高蔵寺などの広範囲に分布する[1]。窯体構造は丘陵斜面を利用した半地下式の「窖窯」である。

5世紀末に名古屋市東部に起こった須恵器窯である猿投窯の拡大に伴い、小牧市篠岡地区において窯場が作られ、古墳時代末から飛鳥時代にあたる7世紀後半から須恵器の生産を開始した。寺社勢力や律令政府の影響力が働いていたと考えられ、須恵器以外にもを多く産出することが特徴で、それらの製品は大山廃寺などの地元尾張の古代寺院や官衙のほか、奈良県石神遺跡など畿内の国家中枢部にも供給され、8世紀前半には一時的に猿投窯を凌ぐ生産量を誇った[2]。しかし8世紀半ばに一時衰退する[3]

平安時代に入る8世紀末ないし9世紀初頭に猿投窯で国内初の量産型人工施釉陶器(瓷器)である灰釉陶器が生産されるようになると、9世紀中頃から須恵器生産を再開していた尾北窯でも、同世紀後半に灰釉陶器の生産へと移行した[1]。篠岡古窯跡群では緑釉陶器の生産も同時に行われた。10世紀から11世紀にかけて最盛期を迎え、製品は東海地方および畿内へも流通した。

11世紀末になると、猿投窯や初期瀬戸窯などの、周辺の灰釉陶器窯で一斉に起きた現象[4]と同じく、施釉技法を放棄して無釉の山茶碗生産へと変化し、平安時代も末となる12世紀代に窯操業を停止したと考えられている[1]

脚注

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  1. ^ a b c 篠岡古窯跡群/小牧市”. 小牧市役所. 2018年5月14日閲覧。
  2. ^ 城ヶ谷 2007 pp.56
  3. ^ 城ヶ谷 2007 pp.57
  4. ^ 瀬戸窯業の発生・灰釉陶器から山茶碗生産へ”. 瀬戸市役所. 2018年5月14日閲覧。

参考文献

関連項目




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