小売業最大規模の破産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:08 UTC 版)
バブル時代末期の横浜博覧会が開催された1989年、横浜・本牧の在日米軍本牧海浜住宅跡地の広大な敷地に、大型店舗1号店として「マイカル本牧」が華々しく開業し、海外高級ブランドが多数出店した。しかし米軍に長期間接収されていた影響から、ジャズをはじめアメリカ文化が根付いた本牧の街に、スペイン風をコンセプトとしたマイカル本牧は合わなかった。また「マイカル本牧」開業時のテナント誘致に際し、マイカルは横浜市営地下鉄の本牧延伸を謳っていたものの、本牧への延伸は結局実現しなかった。そのため交通の便の悪さから客足が伸びず、みなとみらい地区の発展とともに客足を奪われた。マイカル本牧はバブル景気の崩壊とともにテナント退去が相次ぎ、デッドモール化していた時期もあった。その後も本牧に続いて各地に建設された巨艦店舗「マイカルタウン」はすべて赤字となった。 さらにバブル崩壊後の1990年代後半から2000年にかけて、ヤオハンと同様のドイツマルク建て社債・転換社債の発行や、店舗資産の流動化(証券化)という手法で機関投資家から資金調達を行い、主に工場跡地への進出や地方自治体の再開発事業で巨大店舗出店を立て続けに行った。しかし自社物件でないため賃貸料がかかり、運営コストが増大して財政を圧迫した。特に「マイカル小樽」や海外店の「マイカル大連」などの大型投資は致命的であった。マイカル大連は後に現地の大商グループに売却され、「麦凱楽(MYKAL)大連商場」として大連市に青泥窪橋・西安路・開発区店の3店がある。 2001年初頭、銀行の不良債権処理とデフレ不況が社会問題となった頃から資金繰りに窮するようになり、同年9月14日午前にメインバンクであった第一勧業銀行(現・みずほ銀行)から金融支援の打ち切りを宣告され、経営破綻が確実となった。そこで第一勧業銀行と当時の四方修社長は、同じく第一勧銀をメインバンクとするイオンを支援先として会社更生法による再建を画策した。ところがこれに対し、ウォルマートからの買収を期待していた旧来の取締役たちが反発。経営陣が残り比較的早く再建が果たせる民事再生法による再建を主張し、四方社長と第一勧業銀行出身の取締役を取締役会で解任。山下幸三が社長に就任し、同日民事再生法の適用を申請した。この騒動は「9.14クーデター」と呼ばれ、同日13時40分過ぎに各テレビ局はニュース速報を流した。しかし同年9月28日にはわずか14日間で山下幸三が社長を辞任し、後任の浦野一雄が社長に就任するという顛末となった。マイカルグループ全体での負債額は1兆9,000億円(本社単体では1兆3,881億円)、当時は戦後第4位の規模となる倒産で、小売・流通業の倒産としては前年のそごうを上回る戦後最大規模となった。 メインバンクの支援を受けられないままの再建は苦しく、支援企業選びも難航したが、イオンが会社更生法下での支援を表明。2001年11月22日に発表され、民事再生手続の中止と会社更生法の申請がなされた。マイカル倒産時の一連の騒動は、民事再生法と会社更生法が併存することのデメリットと会社更生法の使い勝手の悪さを示すこととなり、会社更生法の改正作業に影響を与えた。なお、マイカル本体と傘下の店舗運営会社は業績が悪化していたが、ワーナー・マイカル(現・イオンエンターテイメント)、ピープル(現・コナミスポーツ)、ジャパンメンテナンス(現・イオンディライト)などの子会社の業績は好調であった。
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