富士観光の経営へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:29 UTC 版)
第二次世界大戦中には、船原ホテルは児童の疎開施設となっており、終戦に伴って空き家となった。これを三井財団系の設立した東海観光が買い取ったが、その理由は後述の石川によれば「当時は観光会社の許可を受けるのに何か母体がなければ許可にならないというんで、何でもいいからくさったようなホテルでもいいから買わなければならないというんで」というものだったという。その後、東海観光は都観光と改称してのち、富士観光と合併した。 富士観光(現・富士レックス)は1946年(昭和21年)12月28日に静岡県清水市(現・静岡市清水区)に資本金250万円で設立された観光会社で、当初は日本平ホテルと旅館喜世水を経営していたが、1948年(昭和23年)からはこれに三保園ホテルが加わり、更に1950年(昭和25年)には都観光とのこの合併により、船原ホテルの経営母体となったとされる。同年には東海観光出身の石川 武義(いしかわ たけよし、1900年〈明治33年〉 - ?)が社長に就任した。のちの1963年(昭和38年)には、東京都世田谷区の二子玉川に富士観会館(旧称・二子園)を新設開業し、同年に船原ホテルと三保園ホテルへ新館を建設している。 富士観光はこうして買い取った約2000平方メートルという広大な敷地に、鉄筋コンクリート4階建ての本館、お狩場焼や鱒釣り用の施設、クレー射撃場などを建設していった。それまでの船原温泉はごくひなびた温泉郷に過ぎず、周囲からは「あんなへんぴなところへ、客が集まるわけがない。大きなバクチだ」と危険視されたが、投資は成功し、純金風呂設置前の1964年(昭和39年)時点で既に、月に1万人の来客、売上げ5000万円を達成しており、湯ヶ島、修善寺、大仁、船原などを全て合せた天城温泉郷の中で、船原ホテルが料理飲食税納入番付の1位を独走していたという。 社長に就任後すぐ、船原ホテルで石川が最初に行ったのは、3万本の桜の木を植えたことであったという。これは今後、観光事業の発展に伴って日本人が温泉に行くことが日常茶飯事になり、やがては飽きが来る筈だとの予想によるものであった。今は「一晩中さわいで、外などに行かなくともいいんだという考えがある」が、今後は「かならずアメリカのように、家庭をもってくるようになる。ということで外で御飯を食べて、外で遊ぶことになる」と考え、テニスコートも設置したが、「ゲタじゃテニスはできない。ゆかたじゃテニスはできない。温泉へきてテニスはやりたくない」ということで、これは完全な失敗に終ったという。
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