富士講・富士塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 07:21 UTC 版)
江戸時代には、庶民の間でも富士山の登拜が広く行なわれるようになった。これは戦国時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)に富士山麓の人穴で修行した角行藤仏(天文10年(1541年) - 正保3年(1646年)が行なった富士信仰が起源とされる。庶民は富士山への信仰を強くし、特に江戸の各地には富士山を遥拝する富士塚が多く作られた。富士塚は土を盛って作られた人工の小さな山で、富士山がよく見えるところに作られ、山頂には浅間神社が祀られて、富士山に行くのが難しい人でも擬似的に登拜を体験できるものである。 こうした富士山信仰の高まりを受け、江戸時代には富士山信仰を基盤とした神仏混交の新宗教が多数登場した。新宗教は江戸で布教を行い富士講を組織して、江戸幕府が無視できない規模になることもあり、幕府はしばしば富士講禁制の町触を出した。例えば、1774年(安永3年)から1849年(嘉永2年)に、江戸町奉行所は7回の禁制の町触を出した。これらの新宗教は明治期の激動を経て、今でも実行教・丸山教・扶桑教などと脈絡を保っている。
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