宿敵武田信玄とは? わかりやすく解説

宿敵・武田信玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)

上杉謙信」の記事における「宿敵・武田信玄」の解説

信玄との生涯亘る因縁からか、それが転じて二人の間には友情いたものがあったのではないかと現在でも推測されることがある信玄永禄10年1567年)に同盟国駿河今川氏真との関係が悪化し止め受けているが(『萩原芦沢文書』)、武田氏領国甲斐信濃内陸のため、塩が採れない。これを見越した真の行動であったが、謙信はこの氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろうといって信玄に塩を送ったという。この逸話に関して信頼すべき史書の裏付けがなく、後世の創作ではないかとも考えられているが、少なくとも謙信今川同調して止め行ったという記録はない。 この時、感謝の印として信玄謙信送ったとされる福岡一文字在銘太刀「弘口」一振(塩留め太刀)は重要文化財指定され東京国立博物館所蔵されている。『日本外史』では信玄の死を伝え聞いた食事中謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほど英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したという。『関八州古戦録』でも同様の話を伝えられている。また、夜話』では信玄死後3日城下音楽禁止した理由には「信玄を敬うというより武道の神へ礼を行なうため」と挙げている。「信玄亡き今こそ武田攻め好機」と攻撃薦める家臣意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けている。一方で上記逸話後世の創作可能性もあり、謙信信玄をかなり嫌っていたとも伝えられている。信玄父親追放したり、謀略駆使して敵を貶めたりするのは謙信言わせるところの道徳観反しており、謙信信玄行い激怒したという。信玄との利益度外視した数々闘争は、謙信純粋に信玄嫌っていたことが原因だという説もある。

※この「宿敵・武田信玄」の解説は、「上杉謙信」の解説の一部です。
「宿敵・武田信玄」を含む「上杉謙信」の記事については、「上杉謙信」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「宿敵武田信玄」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「宿敵武田信玄」の関連用語

宿敵武田信玄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宿敵武田信玄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの上杉謙信 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS