定太郎と妻・なつ
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平岡定太郎は帝国大学を卒業した翌年の1893年(明治26年)、武家の娘(永井岩之丞の長女)である永井なつ(戸籍名:なつ)と結婚した。「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)59-60頁によると、以下のように解説されている。 なんといっても帝大出の“学士さま”である。“学士さまならお嫁にやろか”といわれた時代だから奈徒も不自然なく嫁いできたものと思える。奈徒は父は永井玄番頭の嗣子、その母は宍戸藩の松平頼位の娘、松平大炊守の妹というれっきとした名流の士族であった。百姓の定太郎が士族の娘を嫁にもらえたのも“学士さま”のお蔭であったろう。平岡家の家系には、このときはじめて名血と結びついた。しかし奈徒という女性は非常に気位が高く気性もはげしかった。徳川家重臣の嫡流という意識を強く持ち、その上に美貌であったから、一介の百姓生まれの定太郎を内心では軽蔑していたようである。つね日頃から、「お殿様と駿河へ行って……」という話をし始めると、それは永井家が家臣として最後まで徳川慶喜と行動を共にしたというプライドからくるものであった。語学にも堪能で、ドイツ語、フランス語を七十歳すぎても流暢に読んだり話したりすることができたともいう。定太郎は原敬に重用された性格でわかるように、能吏というよりは事業家肌であった。 — 「三島由紀夫の無視された家系」 息子・梓は自著の中で、両親の仲があまりよくなかったことを以下のように語っている。 …子供が僕一人というのは、あながち母の邪推を待つまでもなく、その平常の振舞いからして父があるいはトリッペルにとっつかれていたためかと思われます。母自身も猛烈な坐骨神経痛にかかり、一生を苦しみ通したのですが、これも父のしわざだとの医者のひそひそ話を小耳にはさんだことがありました。大家族の中における長女たる自分の身分、家柄を過信するプライド、父の天衣無縫の行動、坐骨神経痛等々が重なり合って、母は精神肉体両面からの激痛でひどいヒステリーになる。この大型台風はたちまち家中をところせましと吹きまくり、その被害や以て想うべしという惨状でした。 — 平岡梓「伜・三島由紀夫」 また、野坂昭如によると、「なつの繰り言、うわ言、罵声に、ひょいと相槌を打ち、たしなめ、しばしば鉾先が定太郎に向けられたが、平手打ちを浴び、唾を吐きかけられても、特に耐えるでもなく、平然と受け流した。もっとも、梓によれば、富士見町あたりまでは、けっこうやり合って、元旦の朝、端正に整えられた祝膳を、定太郎がすべてひっくり返してしまうこともあったらしい」という。
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