定太郎と妻・なつとは? わかりやすく解説

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定太郎と妻・なつ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:45 UTC 版)

平岡定太郎」の記事における「定太郎と妻・なつ」の解説

平岡定太郎帝国大学卒業した翌年1893年明治26年)、武家の娘(永井岩之丞長女)である永井なつ(戸籍名:なつ)と結婚した。「三島由紀夫無視され家系」(『月刊噂』1972年8月号)59-60頁によると、以下のように解説されている。 なんといっても帝大出の“学士さま”である。“学士さまならお嫁にやろか”といわれた時代だから奈徒も不自然な嫁いできたものと思える。奈徒は父は永井番頭嗣子、その母は宍戸藩松平頼位の娘、松平大炊守の妹というれっきとした名流士族であった百姓の定太郎士族の娘を嫁にもらえたのも“学士さま”のお蔭であったろう。平岡家家系には、このときはじめて名血と結びついた。しかし奈徒という女性は非常に気位高く気性もはげしかった徳川家重臣の嫡流という意識強く持ちその上に美貌であったから、一介百姓生まれの定太郎内心では軽蔑していたようである。つね日頃から、「お殿様駿河行って……」という話をし始めると、それは永井家家臣として最後まで徳川慶喜行動を共にしたというプライドからくるものであった語学にも堪能で、ドイツ語フランス語七十歳すぎても流暢に読んだ話したりすることができたともいう。定太郎原敬重用され性格でわかるように、能吏というよりは事業家であった。 — 「三島由紀夫無視され家系息子自著の中で、両親の仲があまりよくなかったことを以下のように語っている。 …子供が僕一人というのは、あながち母の邪推を待つまでもなく、その平常振舞いからして父があるいはトリッペルにとっつかれていたためかと思われます。自身猛烈な坐骨神経痛にかかり、一生苦しみ通したのですが、これも父のしわざだとの医者ひそひそ話小耳はさんだことがありました大家族中における長女たる自分身分家柄過信するプライド、父の天衣無縫行動坐骨神経痛等々重なり合って、母は精神肉体両面からの激痛でひどいヒステリーになる。この大型台風はたちまち家中ところせましと吹きまくり、その被害以て想うべしという惨状でした。 — 平岡梓「伜・三島由紀夫また、野坂昭如によると、「なつの繰り言うわ言罵声に、ひょいと相槌打ちたしなめ、しばしば鉾先が定太郎向けられたが、平手打ち浴び、唾を吐きかけられても、特に耐えるでもなく、平然と受け流した。もっとも、によれば富士見町あたりまでは、けっこうやり合って元旦の朝、端正整えられた祝膳を、定太郎がすべてひっくり返してしまうこともあったらしい」という。

※この「定太郎と妻・なつ」の解説は、「平岡定太郎」の解説の一部です。
「定太郎と妻・なつ」を含む「平岡定太郎」の記事については、「平岡定太郎」の概要を参照ください。

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