官僚制度の概略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:46 UTC 版)
詳細は「秩石」および「光禄勲」を参照 「前漢#官制」および「後漢#官制」も参照 漢代の官職は秩石によって階級が分かれており、例えば前漢では、九卿や大きな郡の太守なら中二千石、普通の郡の太守や都尉なら二千石、10,000戸を超す大県の長官である県令なら、その大きさに応じて六百石から千石、それに満たない小県の長官・県長は三百石から五百石、県の佐官である県丞・県尉は二百石から四百石、県の属吏である卒史・属・書佐などであれば百石・斗食・佐史、というように格付けされていた。ただし、大県と小県の実態的区分は人口ではなく面積だったという説もある。 この秩石の序列とは別に、漢代の官吏には大きく分けて2つの区分があった。ひとつが皇帝によって任命された勅任官(長吏)で、もうひとつがそうではない非勅任官(少吏)、つまり、主に(州・)郡・県などの地方政府(の高官)によって採用された属吏である。この両者の間には出世のルートや待遇の面で厚い壁があった。また、この地方政府の高官、すなわち長官や佐官とされた州の刺史や県の尉など、は勅任官であったが、彼らは本籍地として登録されている本貫地に派遣されることはない、という厳格なルールがあり、逆に、非勅任官は基本的に本貫地で現地採用された。 これらの官職は秩石の大小を問わず、4年を目安とした満期が設定されており、その満期が来れば官吏に「功」が一つ追加され、満期に達しない年数は「労」としてカウントされた。例えば、ある官職を6年務めた場合は「功一労二歳」というように評価された。これを功労という。功はもともと戦争で首級を上げるなどの戦功を評価する制度で、大きな戦争がなくなった後も、盗賊の捕縛で功が追加されたり、公的な弓術大会で好成績を収めれば労に最大3ヶ月追加されたり、逆に不始末があれば「奪労」として労を減らされたりした。こうした功の累積による昇進を功次といい、それに伴う異動を遷転という。 光禄勲(前漢初期は郎中令)の属官には郎官と呼ばれる4つの官職、すなわち、比六百石の議郎、同じく比六百石の中郎、比四百石の侍郎、比三百石の郎中、があった。郎官の本来の役割は禁衛として皇宮の警護をしたり皇帝の行幸に付き添うことだったが、それ以外には他にこれといった任務もなければ定員もなく、むしろ人事制度において特に重要な役割を果たした。というのも、次に重要な官職へと栄転するために待機しておくための職という意味会いが強くなったからである。このため、郎官として登用されることを特に郎選という。 地方の属吏ら百石以下の非勅任官が功次によって二百石以上の勅任官になるのは特に困難であり、最低でも比三百石の勅任官である郎中としてキャリアが開けるのは、それだけ有利だった。前漢の前期においては、郎選からエリートコースを歩んだ官吏は、一度も県や道の官職を経ることなく三公九卿となることができたのに対し、非勅任官である地方の属吏を出発点とした官吏は、功次によって六百石以上の地方の高官に出世することはできたが、それより上にはなれなかった。前漢後期になると、エリート官吏が県・道の長官や佐官を経る出世コースができたのに対して、非エリート官吏は四百石程度が限界となり、後漢後期ではそれすらも到達できなくなった。
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