安芸香川氏
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承久3年(1221年)、承久の乱の戦功によって、経景は安芸国八木を、義景は安芸国山県郡戸谷を賜わる。義景は、兄経景の長男である香川平太景光と共に、一門家の子郎徒を引き連れ、相模国から、八木山の裾野に太河に突き出したような山へ城(八木城)を築いた(貞応元年三月三日)。太田川の守り・要塞となった八木は繁栄した。安芸武田氏の滅亡後、毛利氏一門となり香川光景が家臣として活躍。毛利水軍の一角(川内水軍)も担って、多くの戦に参加して功績を上げた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで敗れた香川氏は周防国に移封され八木城は廃城。香川氏は岩国吉川氏の家老職となる。そこで香川正矩は『陰徳記』を記した。その次男の景継は延宝元年(1673年)、宣阿として『陰徳記』の加筆・修正を行い『陰徳太平記』を出版するなど、「梅月堂」と称する歌人として京(京都)の徳大寺家に仕えた。その子孫も代々徳大寺家に仕え、著名な歌人を輩出している。香川正経(正恒)は、現在も岩国市に残る「香川家長屋門」を建て、香川景晃は文化3年(1806年)、今津・室の木沖干拓事業を進め、「麻里布開作」と名付け、岩国を海上交通や物流の拠点とした。また、文人・歌人としての家系である香川氏らしく、国文学者や歌人としても活動。岩国市藤生の「松巌院」には、景晃の書が遺っている。
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安芸香川氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 00:05 UTC 版)
安芸香川氏は、承久3年(1221年)の承久の乱の戦功によって安芸国に地頭職を得て、香川景光が八木城(安佐南区八木)を築いた。安芸武田氏に従ったが、武田氏の滅亡により、毛利氏一門となって香川光景が家臣として活躍。毛利水軍の一角(川内水軍)も担って、多くの戦に参加して功績を上げた。毛利氏の防長移封以後の香川氏は、岩国領吉川氏の家老職を務め、香川正矩は『陰徳記』を記す。その次男の景継は延宝元年(1673年)、宣阿として『陰徳記』の加筆・修正を行い『陰徳太平記』を出版するなど、歌人として京(京都)に在住するようになり、「梅月堂」と称して徳大寺家に仕えた。また、その子孫も代々徳大寺家に仕え、著名な歌人を輩出した。香川正経(正恒)は、現在も岩国市に残る「香川家長屋門」を建て、香川景晃は文化3年(1806年)、今津・室の木沖干拓事業を進め、「麻里布開作」と名付けて、岩国を海上交通や物流の拠点とした。また、文人・歌人としての家系である香川氏らしく、国文学者や歌人としても活動。岩国市藤生の「松巌院」には、景晃の書が遺っている。
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安芸香川氏
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安芸香川氏は安芸国を拠点とする鎌倉氏流香川氏子孫の氏族である。 承久3年(1221年)6月14日、承久の乱の功績により、香川経高の子・経景は安芸国八木を、その弟・義景は安芸国山県群戸谷を与えられた。貞応元年(1222年)3月3日、義景は、兄・経景の長男である香川景光と共に、相模国から安芸国へ移り、八木山の裾野に太河に突出したような山城(八木城)を築いた。 『芸藩通志』によると、香川経高の子・三郎経景は承久の乱の恩賞として多くの所領を与えられた。経景の子のうち景光は安芸国佐伯郡(安佐郡)八木の地頭職となり、安芸国へ移住し、八木城を拠点としたとされる。 戦国時代初期には安芸武田氏に従ったが、安芸武田氏は大内氏や毛利氏との戦いによって勢力を衰えさせた。当時の香川氏当主・香川光景は最後まで安芸武田氏を支えたものの、家中の争いにより離反して毛利氏に従った。『雲州軍話』や『安西軍策』に安芸香川氏の名前が散見される。 その後光景は、毛利氏の家臣として活躍し、毛利水軍の一角(川内水軍)も担い、多くの戦にも参加した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が防長に移封されると、香川氏嫡流は岩国領吉川氏の家老職を務めた。また安芸国に残った香川氏も多く存在した。 香川氏の一族であった香川正矩は、主家の命もあり『陰徳記』を記した。その次男の景継は、延宝元年(1673年)京に出て宣阿と名乗り、『陰徳記』の加筆・修正を行い『陰徳太平記』として出版した。宣阿は武士を捨て、歌人として京に在住するようになり、「梅月堂」と称して徳大寺家に仕え、歌人として生きた。また、その子孫も代々徳大寺家に仕え、著名な歌人を輩出して、明治維新を迎えた。 吉川家の家老として生きた宣阿の兄・正経(正恒)は、現在も岩国に残る「香川家長屋門」を建てた。幕末に近い頃、その子孫に香川景晃を出して、藩政を支え、明治を迎えた。 尚、香川氏の本姓を桓武平と肯定するには、より多くの参考文献が必要となる。
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