安倍の後継者争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 19:22 UTC 版)
当時の安倍派では、同派の幹部・加藤、三塚、塩川正十郎、森喜朗の4人が安倍派四天王と称されていた。そんな中、1991年5月に会長の安倍が逝去。安倍が体調不良となっていた時期から、派内では四天王同士での後継者争いが活発化していた。 塩川、加藤、森、三塚の4人の中では三塚が1番後輩であったが、リクルート事件に加藤と森が連座すると、事件に無関係かつ竹下登の後ろ盾もあった三塚は、次々と内閣・党の要職を歴任し、実力者としての基盤を固めた。加藤と森は三塚に対して警戒感を持ち、三塚・加藤の「三六戦争」、三塚・森の「MM戦争」といった言葉が囁かれるようになった。一方で最年長の塩川は福田赳夫に近く、表面的には3人の主導権争いからは距離を置いた。 安倍の死後、清和会事務総長であった三塚は自ら次期派閥会長に意欲を示し、一方の加藤は自民党政調会長就任のため派閥から離れていたため、自分の代わりに塩川を三塚の対抗馬に推し、塩川もこれに乗った。 当初は、三塚系・加藤系共に派内を二分する同等の勢力をもっていたが、加藤の推した塩川は、派内では他の四天王に比べると人望に欠け(小泉内閣での財務相就任時に好々爺扱いされたが、当時は「瞬間湯沸かし器」と呼ばれていた)、また癌の手術をして病み上がりであったことから、若手議員から不安視する声が続出した。これを受け、塩川は次期会長レースから降りることを表明。塩川の脱落により加藤系が不利な立場に置かれると、加藤に近い竹下派会長の金丸信がこの会長問題に介入、清和会座長の長谷川峻に「あなたが会長になったらどうか」と、三塚会長阻止のために長谷川の会長就任を迫った。この金丸の介入により、「他派の人事に口出しするとは何事か」と、一気に派内の大半は三塚支持に雪崩をうち、早稲田大学雄弁会(竹下元秘書、当時参議院議員の青木幹雄も存在)の後輩であった森も三塚支持を表明したことで、長谷川の裁定によって三塚が次期会長と決まった。 森は「私は加藤さんが安倍さんの後継になったのでは福田赳夫さんの精神はなくなると思っていた。だから、安倍さんの後継を誰にするかということになった時、塩川さんがやらないなら、三塚さんしかいないと考えた。北川正恭君が僕の家に来て、「党内の若い議員たちは、加藤さんが後継だと困ると言ってます。森さんと三塚さんがぶつかって派が割れるのも困る。だから森・三塚連合でいっていただきたい、会長が三塚さんで、それを森さんが支えればいいではないですか。」と言ってました。安倍さんも最後までやる気で、後継問題なんかは話さなかった。」と述べている。 早稲田大学で三塚の先輩であった竹下が三塚を支援する一方で、金丸や小沢一郎が加藤を支援するという経世会内の主導権争いが、最終的にこの清和会会長問題を決着させることになった。加藤や加藤グループの議員が羽田・小沢派の新党に合流する土壌はこの時既にできていたと言える。
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