学歴および教職歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 03:05 UTC 版)
「ナリマン・ナリマノフ」の記事における「学歴および教職歴」の解説
ナリマン・ナリマノフは、1870年4月14日 (ユリウス暦2日) 、ロシア帝国チフリス県(ロシア語版)チフリス (現在はグルジア領内であり同国の首都トビリシ) に在住するアゼルバイジャン民族の家族で父カルバライ・ナジャフ・アッラーフヴェルディ・オグル・ナリマノフと母ハリマ・ハヌム・ハジ・マメド・カズム・グズ・ザマノヴァの間に、9人きょうだいの八男として誕生した。その名は、南アゼルバイジャンのオルーミーイェからの移民であった曾祖父の名前ナリマンから命名された。 ナリマノフ家は中産階級の貿易商であり、ナリマンはゴリのザカフカース教職神学校(英語版)に入学することが可能であった。ナリマノフの人格形成について多大な影響を与えたのは叔父アリ・ミルザであった。アリ・ミルザは数か国語を話す教育者であり、アゼルバイジャン人作家のアブドゥッラー・シャイグ(英語版)とも交友があった。1889年11月20日、父カルバライ・ナジャフの急死により、ナリマン・ナリマノフは神学校を中退して地元に戻り、家族の生活を支えるために働くことを考え始めた。長兄サルマンが当時病気を患っていたことも家族の窮状をさらに深めていた。こうした窮状下であったにもかかわらず、母ハリマ・ハヌムはナリマノフが学業を継続することを強く要求し、彼は神学校に復学することとなった。1890年6月、ナリマノフは神学校の卒業を果たす。神学校の修了証明書には、彼の優れた態度立ち振る舞いについて記されていたが、成績自体は平均的なものであった。 卒業後、晴れて小学校教員となったナリマノフは、ボルチャルィ郡(ロシア語版)にあるキジリ・ハジロ(ロシア語版)村の小学校のロシア語教師に赴任するが、間もなく小学校は財政難の為に廃校となってしまい、翌1891年にナリマノフはバクーに移ることとなった。神学校からの推薦で、(当時、テュルク系民族はアゼルバイジャン人も含めて押しなべてロシア人からタタール人と呼ばれていた)タタール人(アゼルバイジャン人)学生を対象とした私立のプロギムナジウムに就職しアゼルバイジャン語とロシア語を教える教師となった。このプロギムナジウムは公立学校の適用を受けていなかったので、その教員であったナリマノフは公務員とは見做されず経済的に苦しい生活を送りながら約5年間勤務した。 1896年9月1日、バクー市議会(ロシア語版)の決定により、赴任先のポベドノースツェフ・プロギムナジウムが公立化されてバクー男子古典プロギムナジウムが設立された結果、教員のナリマノフは公務員として正式に認められて1902年までここで勤務。勤勉で模範的な教師としての評価を受けて、聖スタニスラフ勲章(ロシア語版)3等を授与された。 1902年、ナリマノフは32歳でオデッサの帝立ノヴォロシア大学(オデッサ大学の前身)の医学部に入学し、1908年に博士号を取得し卒業した。ナリマノフはバクーの市立病院で働き始め、その献身的な働きぶりから「我々の医師」と賞されるようになった。翌1909年1月には政治活動によって迫害を受けチフリスへ移ったが、ナリマノフは現地でも医業に従事した。
※この「学歴および教職歴」の解説は、「ナリマン・ナリマノフ」の解説の一部です。
「学歴および教職歴」を含む「ナリマン・ナリマノフ」の記事については、「ナリマン・ナリマノフ」の概要を参照ください。
- 学歴および教職歴のページへのリンク