威勢の衰えと帰国
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「ジョージ・フレッチャー・モー」の記事における「威勢の衰えと帰国」の解説
モーがオーストラリアに戻った1843年頃、スワン川植民地は景気後退の局面にあった。その後数年にわたって地主たちを襲う不況を和らげるための施策が多く提案されたが、モーは地主層の不始末こそ不景気の原因だと非難して、これらの施策案にことごとく反対を表明した。この強硬路線は多くの難敵をつくり、彼の人気は落ちた。彼の考え方は立法府協議会やマスメディアの嘲笑を買ったが、彼はハット行政官や次代のアンドリュー・クラーク (Andrew Clarke) からの信頼を得ていたため、社会的勢力は衰えを見せなかった。 1846年10月29日、モーはクラーク行政官の義理の娘であるファニーと結婚した。この年の12月、クラーク行政官と植民長官のピーター・ブラウン (Peter Broun) は深刻な病に臥した。行政官の娘婿という立場から、モーは医師からクラークへの面会を許可された数少ないひとりであった。この事が功を奏し、11月にモーは次代の植民長官に任命された。ブラウンは同じ月に亡くなり、クラークも翌年2月に没した。モーは後任のリチャード・マッデンが到着した1848年3月まで、行政官代行フレデリック・アーウィン (Frederick Irwin) の下で職を全うした。しかし、アーウィンとモーの行政はほとんど支持されず、モーの人気はさらに堕ちた。ジェームス・バティは1924年の著作で「すべての行政活動には疑惑の眼が向けられ、長年の不況や闘争状態に入植者たちは悲観し、彼らは時の行政担当たちに非難の声を投げつけた」と記している。マッデンと新任行政官チャールズ・フィッツジェラルド (Charles Fitzgerald) は、モーを、行政への影響が与えられないようにした。 1852年初頭、モーは休暇を取るためオーストラリアを去りアイルランドへ戻った。彼はその理由を病気の父親を見舞うためと説明したが、ジェームス・キャメロンは2000年に著作で、妻の精神状態を考慮したことが大きかったと著している。しかし彼女は回復を見せず、西オーストラリアへ戻ることを拒絶した。そのためモーは現地でのあらゆる役職を失い、また恩給にも与れなくなった。妻ファニー・モーは1863年に亡くなったが、モーは西オーストラリア州に戻ろうとしなかった。 1878年、『ウエスト・オーストラリアン』紙の編集者トーマス・コバーン・キャンベル (Thomas Cockburn Campbell) 卿はモーの手紙を連載する許可を取り付けた。これは1881年から翌年まで同紙に掲載された。連載が始まるとモーはこの手紙を出版することを決め、これは1884年に『Diary of Ten Years Eventful Life of an Early Settler in Western Australia』(「或る西オーストラリア初期移民の10年間の多忙なる日々の記録」の意)というタイトルで出版された。 1886年12月30日、モーはロンドンのアパートで亡くなった。Stannageは1978年に「絵に描いたような孤独な」死と記し、キャメロンは2000年に「やりがいに満ちた植民地での経歴と比べると、悲しい終末だった」と評した。
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