天王星の軌道の不規則性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/02 20:26 UTC 版)
「海王星の発見」の記事における「天王星の軌道の不規則性」の解説
1781年、アンダース・レクセルは天王星の軌道を計算し、初めてその不規則性に気付いた。彼は、天王星の軌道に摂動を与えるもう1つの惑星が太陽系内にあり、太陽系は100AUもの範囲に広がることを示唆した。 1821年、アレクシス・ブヴァールは、ニュートンの万有引力の法則に基づいた将来の予測位置も含めた天王星の軌道表を出版した。その後の観測で、この表からかなりの逸脱があることが明らかとなり、ブヴァールは摂動天体を仮定するに至った。惑星の黄経と太陽からの距離に関するこれらの不規則性は、太陽の重力の影響や単なる観測誤差、未知の惑星の影響等、様々な仮説での説明が試みられた。 アダムズは学部生の頃からこの不規則性について学び、「摂動」仮説を確信した。アダムズは、天王星の観測データと万有引力の法則を用いて、摂動天体の質量、位置、軌道を推定することができると信じた。 1843年の最後の試験の後、アダムズは大学のフェローに選ばれ、コーンウォールでの夏休みを最初の6個の代入の計算に費やした。 近代の用語で言えば、この問題は、観測データから数理モデルのパラメータを推定する逆問題である。この問題は、コンピュータの出現以降であれば単純な問題に過ぎないが、当時は多くの研究機関での手計算を必要とした。アダムズはまず、経験に基づいたティティウス・ボーデの法則を用いて、仮想天体の名目上の位置を推定した。彼は次に、摂動天体の推定位置を用いて天王星の経路を計算し、計算された経路と観測結果の差を求めた。その後、彼は回帰分析と似た方法を用い、観測との差から仮想天体の位置を計算し直すことを何度も繰り返した。 1844年2月13日、 ケンブリッジ天文台長のジェームズ・チャリスは、アダムズのために、王室天文官のジョージ・ビドル・エアリーに対し、天王星の位置のデータを要求した。アダムズは1845年9月18日に計算を完了した。 恐らくアダムズは1845年の夏にチャリスに自身の研究を伝えたが、その方法について口論になったのであろう。このやりとりの内容や日付については、チャリスからAthenaeum誌に宛てた1846年10月17日の書簡の中でしか明らかになっていない。しかし、1904年にサンプソンがアダムズの論文の中に「新しい惑星」("the New Planet")という記載があり、アダムズの筆跡ではない手書きの文字で「1845年9月受け取り」("Received in September 1845")と署名してあることを示すまで、いかなる書類も確認されていなかった。この記述はしばしばアダムスの優先権を示すものとされるが、歴史家の中には、"the New Planet"という表現は1854年当時の用語ではないこと等を根拠に 信憑性を疑う者もいる。さらに、計算の結果は数週間後にエアリーに伝えたものと異なっている。アダムズは確かにチャリスに計算の詳細を伝えておらず、チャリスは天体の位置を連続して近似していく彼の手法を知らなかった。そのため、天文台での骨の折れる観測計画を始める気がなくなっていき、「労力がかかることは確かであるが、成功するか否かは不確かである」と述べている。 その一方、ユルバン・ルヴェリエは1845年11月10日にパリの科学アカデミーに対し、天王星についての報告を行い、これまでの理論ではその運動を説明できないことを示した。彼はアダムズの研究を知らずに同様の研究を行い、1846年6月1日、科学アカデミーでの会合で一般に対して2度目の報告を行った。この中で、彼は仮想の摂動天体についての位置を与えたが、質量や軌道については与えなかった。ルヴェリエは、海王星は予測された位置から1°以内にあるとした。
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