天下の草創
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:52 UTC 版)
11月8日、頼朝は都へ使者を送ると、黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。11月上旬、義経・行家と入れ替わるように上洛した東国武士の態度は強硬で、院分国の播磨国では法皇の代官を追い出して倉庫群を封印している。11日、頼朝の怒りに狼狽した朝廷は、義経・行家追捕の院宣を諸国に下した。12日、大江広元は処置を考える頼朝に対して「守護・地頭の設置」を進言した。これに賛同した頼朝は、周章する朝廷に対し強硬な態度を示して圧力をかける。 24日に北条時政は頼朝の代官として千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせることに成功する(文治の勅許)。12月には「天下の草創」と強調して、院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、九条兼実への内覧宣下といった3ヵ条の廟堂改革要求を突きつける(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』12月27日条)。議奏公卿は必ずしも親鎌倉派という陣容ではなく、院近臣も後に法皇の宥免要請により復権したため、頼朝の意図が貫徹したとは言い難いが、兼実を内覧に据えることで院の恣意的な行動を抑制する効果はあった。 文治2年(1186年)3月には法皇の寵愛深い摂政の近衛基通を辞任させ、代わって兼実を摂政に任命させる。4月頃から義経が京都周辺に出没している風聞が飛び交い、頼朝は貴族・院が陰で操っていることを察して憤る。5月12日には和泉国に潜んでいた源行家を討ち取った。頼朝は捜査の実行によって義経を匿う寺院勢力に威圧を加え、彼らの行動を制限した。その間に発見された義経の腹心の郎党たちを逮捕・殺害すると、院近臣と義経が通じている確証を上げる。11月、頼朝は「義経を逮捕できない原因は朝廷にある。義経を匿ったり義経に同意したりしている者がいる」と朝廷に強硬な申し入れを行なった。朝廷は重ねて義経追捕の院宣を出すと、各寺院で逮捕のための祈祷を大規模に行うことになった。京都に見捨てられた義経は、奥州に逃れ藤原秀衡の庇護を受けることとなった。 頼朝は、諸国から争いの訴えなどを多く受けるようになり、また平重衡によって焼かれた東大寺の再建工事なども手がけた。 同年、政子が次女三幡を産んだ。政子の妊娠中に頼朝は大進局という妾のもとへ通い、3月に大進局は頼朝の子貞暁を産むが、政子を憚って出産の儀式は省略されている。大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、貞暁は乳母のなり手がないなど人目を憚るようにして育てられた。
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