天下を掌握する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/27 04:43 UTC 版)
天下人が天下を取った人である以上、当然の条件としていえるが、天下人が取った天下の内容が時代によって一様ではなかった。 例えば、源頼朝は自らの事業を「天下の草創」と称したが、後の豊臣秀吉や徳川家康が日本六十余州を支配したことに比べ、頼朝が直接支配した地域は比較にならないほど小規模である。しかし、頼朝が天下人と呼ばれるのは、御家人制と呼ばれる個々の武士たちとの主従的結合(御恩と奉公)を通じて、全国に影響力を及ぼすことができたためである。足利尊氏についても同様のことがいえる。 室町時代後期、「天下」は元々の意味以外に、「京都を中心とした周辺地域」という意味でも使われていた。天下人たる室町将軍は天皇王権を擁し京都を中核とする周辺地域を支配し、地方の諸大名も従属・統制下において地域紛争を調停する役割を果たしており、戦国時代に尾張国の織田信長は将軍足利義昭を擁して間接的にこの役割を担い(天下布武)、元亀4年(1573年)には将軍義昭を追放し、自身が天下人としての立場を継承し地方大名を従属・統制下におき、本能寺の変で急死するまでに畿内を含む二十数か国の支配を完成させ、数多の勢力を従属させるなど全国に威令を及ぼしている。 信長の死後に天下人としての地位を継承した豊臣秀吉は天下統一を成熟させ、より統括的な支配構造を作り上げた。秀吉の死後も徳川家康が打ち立てた江戸幕府にまで継承されていたものと考えられている。
※この「天下を掌握する」の解説は、「天下人」の解説の一部です。
「天下を掌握する」を含む「天下人」の記事については、「天下人」の概要を参照ください。
- 天下を掌握するのページへのリンク