大木新田とは? わかりやすく解説

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大木新田

読み方:オオキシンデン(ookishinden)

所在 茨城県下妻市

地名辞典では2006年8月時点の情報を掲載しています。

〒304-0025  茨城県下妻市大木新田

大木新田(鬼怒川西岸)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 04:05 UTC 版)

大木 (守谷市)」の記事における「大木新田(鬼怒川西岸)」の解説

寛永年間行われた鬼怒川掘削以後西岸三角州低地入植が行われ大木新田が成立した。しかし、河川囲まれ低地であることから洪水被害に遭うことが多く人々は「流作場」と称するようになり、現在でも「大木流作」の呼び名残っている。流作場での農業洪水覚悟の上で行わねばならなかったが、領主状況考慮して平年でも年貢少なくするなどの措置取り三年一度収穫があれば暮らせと言われた。また、大木流作地区開発近隣相馬郡鹿小路(現:常総市内守谷町鹿小路)、葛飾郡目吹(現:野田市目吹)、葛飾郡保木間(現:野田市)の三家によって始められたと伝えられその三家はそれぞれ上の家(かみのうち)」、「中の家(なかのうち)」、「下の家(しものうち)」と称されそれぞれ地域北・中南部に居を構えたその後入植が行われ、江戸時代末期には17となった1877年明治10年)には大木村合併し、再び大木村一部となり、明治大正経て第二次世界大戦後1946年昭和21年)になると、山形県出身者中心とした満州からの引揚者が「大八洲おおやしま開拓農業協同組合」を組織し当地開墾をさらに進めた大木流作地区近代的整備され田園地帯となると共に、酪農行われるようになった。そして、2006年平成18年)には、田畑が約370ha、牧草地約70ha、酪農血約20ha、居住戸数21戸を数えたが、水害懸念されることから住民利根川東岸への住居移転進められ2007年平成20年)には完了した。現在では当地無人地帯となっているが、周辺地域市街化する昨今においても広大な田園地帯広がり畑作酪農今なお続けられている。また、江戸時代には洪水対策のために住居建てる土地盛土が行われるなどの工夫が行われていた。

※この「大木新田(鬼怒川西岸)」の解説は、「大木 (守谷市)」の解説の一部です。
「大木新田(鬼怒川西岸)」を含む「大木 (守谷市)」の記事については、「大木 (守谷市)」の概要を参照ください。

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