大木新田(鬼怒川西岸)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 04:05 UTC 版)
「大木 (守谷市)」の記事における「大木新田(鬼怒川西岸)」の解説
寛永年間に行われた鬼怒川の掘削以後、西岸の三角州低地の入植が行われ大木新田が成立した。しかし、河川に囲まれた低地であることから洪水の被害に遭うことが多く、人々は「流作場」と称するようになり、現在でも「大木流作」の呼び名が残っている。流作場での農業は洪水を覚悟の上で行わねばならなかったが、領主も状況を考慮して平年でも年貢を少なくするなどの措置を取り、三年に一度収穫があれば暮らせると言われた。また、大木流作地区の開発は近隣の相馬郡鹿小路村(現:常総市内守谷町字鹿小路)、葛飾郡目吹村(現:野田市目吹)、葛飾郡保木間村(現:野田市)の三家によって始められたと伝えられ、その三家はそれぞれ「上の家(かみのうち)」、「中の家(なかのうち)」、「下の家(しものうち)」と称され、それぞれ地域の北・中・南部に居を構えた。その後も入植が行われ、江戸時代末期には17戸となった。1877年(明治10年)には大木村と合併し、再び大木村の一部となり、明治、大正を経て、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)になると、山形県出身者を中心とした満州からの引揚者が「大八洲(おおやしま)開拓農業協同組合」を組織し、当地の開墾をさらに進めた。大木流作地区は近代的に整備された田園地帯となると共に、酪農も行われるようになった。そして、2006年(平成18年)には、田畑が約370ha、牧草地約70ha、酪農血約20ha、居住戸数21戸を数えたが、水害が懸念されることから住民の利根川東岸への住居移転が進められ、2007年(平成20年)には完了した。現在では当地は無人地帯となっているが、周辺地域が市街化する昨今においても広大な田園地帯が広がり、畑作や酪農が今なお続けられている。また、江戸時代には洪水対策のために住居を建てる土地は盛土が行われるなどの工夫が行われていた。
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