大木村の酉年騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 04:05 UTC 版)
「大木 (守谷市)」の記事における「大木村の酉年騒動」の解説
1861年(文久元年)に大木村で起きた騒動。当時は尊皇攘夷が盛んに叫ばれる時代で、農村も不安定な状態となっていたが、大木村では大雨による洪水で田畑が荒れ、蓄えていた食糧も失うなど壊滅的な状態となっていた。そこで大木村民は豪農である吉兵衛に貯蔵米の供出を願い出たが拒否され、その場は引き下がった農民たちであったが、相談の後に押しかけることとなった。しかし、吉兵衛は浪人たちを用心棒として雇っていたことから押しかける機会を失い、警備の薄い隣の吉兵衛家の分家へ押しかけ、焼き討ちを行った。また、襲撃時には家族を村内の中ノ台の喜右衛門方へ避難させており、その後に貧農たちは米を持ち出し、吉兵衛浪人を雇ったのはその後の襲撃に備えるためであったという証言も存在するが、文献としては残っていない伝承であり、定かではない。
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