大嶺炭田の石炭の欠点と海軍の対応
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海軍艦艇の燃料国産化と練炭使用推進という課題解決の切り札として期待された大嶺炭田の無煙炭であったが、結果的には海軍の期待に十分応えられなかった。まず問題となったのが大嶺炭田の無煙炭の品質であった。海軍艦船用の練炭は、当時戦闘用の第1種練炭と通常時に使用する第2種練炭の二種類に分けられていた。品質的にはもちろん戦闘用の第1種練炭が高品質であったが、大嶺炭田の無煙炭は灰分が多く、第1種練炭の原料としては不適格とされた。そのため第2種練炭の原料として使用されるようになったのであるが、練炭製造前に灰分を減らすために洗炭を行ってもその効果が薄く、クリンカーができやすいという欠点があった。 大嶺炭田産の無煙炭は、品質の問題以外にも産出量も海軍の期待を下回った。海軍練炭製造所採炭部の石炭生産量は、1907年(明治40年)が66560トン、1908年(明治41年)は98441トン、1909年(明治42年)が95292トンと山口県一の炭鉱となり、大正時代も1918年(大正7年)まではおおむね5万トン台から6万トン台の生産量を挙げている。しかしこの量は当初、大嶺炭田からの年間石炭運搬量15万トン以上を考えていたことから見ても少なかった。結局、良質の無煙炭であるフランス領インドシナ産のホンゲイ炭を輸入することになったが、1908年(明治41年)には大韓帝国平壌産の無煙炭の使用が開始された。平壌炭は品質が良くしかも埋蔵量も豊富であったため、海軍用練炭製造の主力は平壌炭となっていった。 品質と生産量の問題に追い打ちをかけたのが海軍艦船燃料の重油への転換であった。世界的に石炭や練炭を艦艇燃料としていた時代から、急速に重油使用へと移り変わりつつあった。日本では1906年(明治39年)進水の生駒が初めて炭油混焼缶を採用した。重油専焼缶は1915年(大正4年)イギリスより購入した浦風が初であり、国産艦でもやはり1915年(大正4年)進水の樺が重油専焼缶を採用し、以後、新造の海軍主要艦船は重油専焼となり、練炭の使用は急速に減少していくことになった。 結局、1923年(大正12年)1月、海軍は大嶺海軍採炭支所(海軍練炭製造所採炭部)の廃止を決定し、同年3月22日には廃庁式が行われた。なお、3年以上勤続の従業員には日給80日分の退職金が支給されたという。大嶺海軍採炭支所の廃止後、鉱区、炭鉱設備一式はいったん大蔵省の管轄となったが、1923年(大正12年)6月に鈴木寛一に払い下げられた。大蔵省と鈴木寛一が所有していた時期、炭鉱は休山状態であったが、1924年(大正13年)1月には山陽無煙炭鉱株式会社が設立され、海軍直営炭鉱は民間の炭鉱として再スタートすることになった。
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