大学と教師としてのキャリア: 1951-1955
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「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「大学と教師としてのキャリア: 1951-1955」の解説
医者になることを望んだツツは、医学について学ぶためウィットウォータースランド大学(英語版)への入学権を確保したが、彼の両親は授業料を支払うことができなかった。そのためツツは教職に進路変更し、1951年に教師養成機関であるプレトリア・バントゥー教員養成大学(Pretoria Bantu Normal College)の課程を受講するための政府奨学金を取得した。そこで彼は学生代表評議会(the Student Representative Councillor)の会計係を務め、the Literacy and Dramatic Societyの組織化を助け、文化討論協会(the Cultural and Debating Society)の会長を2年間務めた。ある地方討論会の折に、ツツは弁護士で将来大統領となるネルソン・マンデラと初めて出会った。マンデラはこの時の出会いを覚えておらず、1990年まで2人が再び会うことはなかった。この大学で、ツツは活動家のロバート・ソブクウェ(英語版)から試験についての助言を得て、トランスヴァール・バントゥー教師免許(Transvaal Bantu Teachers Diploma)を取得した。また、南アフリカ大学(UNISA)が提供する5つの通信課程をとっており、後のジンバブエの指導者となるロバート・ムガベと同じクラスを卒業した。 1954年、ツツはマディバネ高校(Madibane High School)で英語教師になった。その翌年にはクルーガーズドープ高校(英語版)に移籍して英語と歴史を教えた。彼は妹の友人で小学校教師を目指して勉強していた、ノマリゾ・レア・シェンクサネ(Nomalizo Leah Shenxane)と交際するようになった。彼らはクルーガーズドープ・ネイティブ・コミッショナーズ裁判所(Krugersdorp Native Commissioner's Court)で1955年7月に法的に結婚し、メアリー・クイーン使徒教会(the Church of Mary Queen of Apostles)でローマ・カトリックの結婚式を挙げた。ツツはプロテスタントであったが、ノマリゾ・レアがカトリック信徒であったため、この結婚式に同意した。新婚の2人は6か月後に部屋を借りるまで、ツツの両親の部屋に住んだ。2人の最初の子供、トレヴァー(Trevor)は1956年4月に生まれた 。最初の娘タンデカ(Thandeka)はその16か月後に生まれた。夫妻は聖パウロ教会(St Paul's Church)で礼拝を行い、ツツは日曜学校の教師、聖歌隊副指揮者[訳語疑問点](assistant choirmaster)、教会評議員[訳語疑問点](church councillor)、信徒伝道者(lay preacher)、そして助祭代理(sub-deacon)としてボランティアを行い、教会以外では地元のフットボールチームの管理者としてボランティアを行った。
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