大学と追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 16:37 UTC 版)
「チャールズ・サンダース・パース」の記事における「大学と追放」の解説
1879年、パースは新しいジョンズ・ホプキンス大学の論理学の講師に任命された。同大学は彼が興味のある多くの分野で有力だった。たとえば哲学(Josiah Royceとジョン・デューイは同大学で博士号を取得した)、心理学(スタンレー・ホールが教鞭を執り、Joseph Jastrowが研究を行った。Jastrowは重要な経験的研究の成果をパースと共同で執筆した)、そして数学(ジェームス・ジョセフ・シルベスターが教鞭を執った。彼は数学と論理学についてのパースの著作を称賛するようになった)といった具合である。この身分が、パースの手にした唯一の大学での役職ということになった。なお大学での職、助成金、そして科学界での地位を得ようとするパースの努力は、当時の有力な科学者サイモン・ニューカムが秘密に表明した反対によって、ことごとく台無しにされていたといわれる。 パースの私生活もまた彼を不利にした。彼の1人目の妻ハリエット・メルシナ・フェイ (Harriet Melusina Fay) は1875年に彼と別れた。彼は間もなくある女性と親しくなったが、彼女の旧姓と国籍は現在も不明確なままである(彼女の名前はジュリエット・フロイシー[Juliette Froissy]で、彼女はフランス人だったというのが最も信頼できる推測である)。だが、彼がハリエットと離婚したのは1883年になってからのことで、彼はそのあとでジュリエットと結婚した。その年、ニューカムはジョンズ・ホプキンス大学の理事に、「パースが、ホプキンス大学で働いている間、ある女性と暮らしたり旅行したりしていたが、パースは彼女と結婚していない」ということを指摘した。スキャンダルの結果、彼は解任された。以後、Clark University、ウィスコンシン大学マディソン校、ミシガン大学、コーネル大学、スタンフォード大学、シカゴ大学で就職を試みるがすべて失敗した。パースはどちらの結婚でも子供を持たなかった。
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