大国民議会の成立
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「トルコ大国民議会」の記事における「大国民議会の成立」の解説
大国民議会の遠源は、オスマン帝国憲法に基づいて1877年に召集されたオスマン帝国議会(ただし、1878年から1908年まで停止)にあると言える。 第一次世界大戦敗戦後の1919年、軍の指導者たちがオスマン帝国を占領分割しようとしている諸外国に対する抵抗運動を組織するため、アナトリアのエルズルムとスィヴァスで会議を開き、大戦中の英雄ムスタファ・ケマルが主導権を握って、トルコ人が住民の多数を占めるアナトリアとヨーロッパ側のトラキア(ルメリア)の領土保全を掲げるアナトリア・ルメリア権利擁護委員会を結成した。諸外国との講和を進めていたイスタンブールの帝国政府はアナトリアで起こったこの動きに驚き、反占領軍運動の懐柔と妥協をはかるため、同年末に帝国議会の総選挙を実施した。 しかし、国民の大多数の支持は権利擁護委員会に集まり、新議会は権利擁護委員会の影響下に入った。新議会は1920年1月28日に今後の方針を掲げる「国民誓約」を採択するが、その内容はアナトリア・ルメリア権利擁護委員会の主張と同じように、アラブ人居住地域を除くオスマン帝国領の領土保全とイスタンブールの安全を諸外国に要求し、賠償の支払いを拒否する内容であった。これに脅威を感じたイギリスら連合国は同年3月16日にイスタンブールを占領し、4月11日には諸外国の圧力に屈した皇帝メフメト6世によって帝国議会が解散される。 一方、議会には参加せずアナトリアに留まっていたムスタファ・ケマルは、イスタンブールを脱出した帝国議会議員88名をアナトリア中央部のアンカラに集め、権利擁護委員会の各支部から選出した349名の議員とあわせて、同年4月23日に大国民議会を開いた。これが後のトルコ大国民議会の起源である。その議事堂はアンカラのウルス地区にあり、現在も記念建造物として保存されている。 大国民議会はムスタファ・ケマルを議長に選出し、続いて閣僚を選出して内閣を組閣した。首相は置かれずにケマル議長が閣議を主催し、大国民議会は祖国解放戦争という非常事態の中で、立法、行政、司法の三権全てを掌握する政府の最高機関となった。この時点でオスマン帝国の枠内には、諸外国の占領を甘受してでも既存の帝国政府の維持をはかるイスタンブールの皇帝政府と、占領抵抗運動を組織化した革命政権であるアンカラの大国民議会政府に事実上分裂したことになる。
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