大国民議会の成立とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 大国民議会の成立の意味・解説 

大国民議会の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 02:34 UTC 版)

トルコ大国民議会」の記事における「大国民議会の成立」の解説

大国民議会の遠源は、オスマン帝国憲法基づいて1877年召集されオスマン帝国議会(ただし、1878年から1908年まで停止)にあると言える第一次世界大戦敗戦後1919年、軍の指導者たちがオスマン帝国占領分割しようとしている諸外国対す抵抗運動組織するため、アナトリアエルズルムスィヴァス会議開き大戦中の英雄ムスタファ・ケマル主導権握ってトルコ人住民多数占めアナトリアヨーロッパ側のトラキアルメリア)の領土保全掲げるアナトリア・ルメリア権利擁護委員会結成した諸外国との講和進めていたイスタンブール帝国政府アナトリア起こったこの動き驚き、反占領軍運動の懐柔妥協をはかるため、同年末に帝国議会総選挙実施した。 しかし、国民大多数支持権利擁護委員会集まり、新議会権利擁護委員会影響下に入った。新議会1920年1月28日今後の方針掲げる「国民誓約」を採択するが、その内容はアナトリア・ルメリア権利擁護委員会主張同じように、アラブ人居住地域を除くオスマン帝国領領土保全イスタンブールの安全を諸外国要求し賠償支払い拒否する内容であった。これに脅威感じたイギリス連合国同年3月16日イスタンブール占領し4月11日には諸外国圧力屈した皇帝メフメト6世によって帝国議会解散される一方議会には参加せずアナトリアに留まっていムスタファ・ケマルは、イスタンブール脱出した帝国議会議員88名をアナトリア中央部アンカラ集め権利擁護委員会各支部から選出した349名の議員あわせて同年4月23日大国民議会開いた。これが後のトルコ大国民議会起源である。その議事堂アンカラウルス地区にあり、現在も記念建造物として保存されている。 大国民議会ムスタファ・ケマル議長選出し続いて閣僚選出し内閣組閣した。首相置かれずにケマル議長閣議主催し大国民議会祖国解放戦争という非常事態の中で、立法行政、司法三権全て掌握する政府最高機関となった。この時点オスマン帝国枠内には、諸外国占領甘受してでも既存帝国政府維持をはかるイスタンブール皇帝政府と、占領抵抗運動組織化した革命政権であるアンカラ大国民議会政府事実上分裂したことになる。

※この「大国民議会の成立」の解説は、「トルコ大国民議会」の解説の一部です。
「大国民議会の成立」を含む「トルコ大国民議会」の記事については、「トルコ大国民議会」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大国民議会の成立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大国民議会の成立」の関連用語

大国民議会の成立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大国民議会の成立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのトルコ大国民議会 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS