地形の変遷
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現在、岡山平野の一部となっている区域南部の平地部の多くは、古くは海域であった。この海域は南部に島嶼の児島が存在し、吉備穴海と呼ばれ、九州から畿内を結ぶ重要な海洋航路となっていた。旭川は、現在の玉柏辺りで複数に分岐し、当区南東から中区に掛けての範囲に複数のデルタ地帯を構成した。また笹ヶ瀬川が吉備中山東部で吉備穴海へ流入。総社市井尻野辺りで分岐した高梁川東派川が、総社市中心部から当区の高松地域を経て、吉備中山西部で分岐し、その東派川が庭瀬あたりで吉備穴海へ流入したとされる。 これらは長い年月を掛けて土砂を吉備穴海へ運び、また古代より上流部に盛んであったたたら製鉄によりさらに土砂が海域へ流入をし、次第に海域は遠浅となっていき、葦原や干潮時には干潟が広がる地域が増えていった。中世から明治時代にかけ、これらの地域は干拓による新田開発が徐々に進行し、江戸時代にはかなり活発に造成が行われ現在の岡山平野が構成されていった。当区域にあたる範囲の平野は、江戸時代前期には完成された。 山間部においては、明治維新の前後に、過度な森林伐採が行われたため荒廃。上建部村では近隣の村々と共に「従来一木だに得なかった禿山」状態にあったという。また、笹ケ瀬川の中流域に存在した横井村、上流の野谷村、馬屋上村で90餘町歩(約90ha以上)の禿げ山が存在していた。禿げ山から降雨のたびに流出する土砂は河川を天井川化させ、1892年(明治25年)の水害では、横井村だけで浸水耕地166町歩(約166ha)、浸水家屋102戸を記録した。その後、禿げ山や荒廃した河川には、明治16年から昭和30年代にかけて断続的に現在の砂防事業、治山事業に相当する工事が実施され、現在の緑豊かな山域が形成されるに至っている。
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地形の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/19 14:40 UTC 版)
1775年頃。ショーマット半島と本土は狭い地峡でつながっている。 1842年、チャールズ川の埋立て前。 1880年、大規模な埋立ての後。
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