地域住人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:07 UTC 版)
島原市は5月26日に火砕流に対する避難勧告を出したものの、「(避難の長期化に備えて)自宅へものを取りに帰る時、警察官の規制が厳しい」という住人の要望に応える形で、同日から「地区名ステッカー」を交付しており、このステッカーをつけた自家用車は優先的に避難勧告地域に入ることができた。そのため昼間には避難勧告地域内の自宅で洗濯や畑仕事をする住人の姿が多く見られた。特に上木場地区は葉タバコ耕作で生計を立てていた農家が多かったが、5月15日から始まった土石流による避難勧告以来、長期間の避難生活を強いられたため葉タバコの成長を促す花摘み作業が滞っており、彼らの多くがこれを気にかけていた。そのため6月4日には、避難勧告の対象外であった安中町の葉タバコ耕作農家と協同して、上木場地区の住人総出で避難勧告地域に立ち入り、例年より遅れた花詰み作業を行う予定であった。 このように5月26日以後も住人の多くが生活のために避難勧告地域に立ち入っていた状況を受けて、当初はパニックを恐れて火砕流の危険性について語らなかった火山学者らは、徐々に島原市やマスコミを通じて避難勧告地域に立ち入らないよう住人に警告を発するようになった。だが5月以降、大きな被害を出していた土石流に比べると火砕流の危険性については具体的なイメージが伝わっておらず、ほとんどの住人は警告を真剣に受け止めていなかった。火砕流を単なる土煙だと誤解した住人も少なくなかった。 1992年に実施された「平成3年雲仙岳噴火における災害情報の伝達と住民の対応」 によると、地域住人の75%が6月2日以前は火砕流より土石流が危険と認識しており、火砕流の方が危険であると認識していたのは15%に過ぎなかった。さらに上木場地区において火砕流を「とても危険」と認識していた住人はわずか5%しかいなかった。この調査結果から分かるように、火山学者の警告は最も危険性が大きい地区の住人にすら理解されていなかったのである。 一方、6月3日は朝から降り続いた雨により土石流発生が警戒されたことに加え、2日に行われた島原市議会選挙の当選者を祝う会が白谷町で催されていたため、大火砕流発生時にはほとんどの住人が避難勧告地域から引き揚げており、結果的に住人の犠牲者が減ったのは不幸中の幸いだった。 この火砕流以降、島原市など地元自治体は強制力を伴う警戒区域を設定し、更に対象地域を順次拡大していった結果、最大11,000人が避難生活を余儀なくされたが、以降の犠牲者は1名に抑えられている。被災地域では1990年代半ばから堤防や地面のかさ上げ工事が開始され、一部地域を除いて住民が再び住める環境が整えられた。 だが噴火活動が1995年頃まで続いたため、これらの復興事業の完了は2000年となった。被災地域は前述した上木場地区同様、農業従事者が多い地域であったが、彼らの多くがその間は農業を再開できず、更に被災農地の一部が砂防用地として買収されたため作付面積も減少した。様々な支援策が行われたものの、後継者に悩んでいた多くの農業従事者が被災を契機として離農し、被災農家667戸のうち293戸が2000年までに離農した。そのうち葉タバコ耕作農家は被災前(1990年)は上木場・安中地区を中心に149戸を数えたが、農業再開時点(2000年10月)では26戸まで減少した。
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