地域と土地利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 14:23 UTC 版)
縄文海進により海水面が高かった縄文時代前期は、奥東京湾(台地の西側の水域は「古入間湾」とも呼ばれる)に突き出た半島であった。 「埼玉県の貝塚の一覧」も参照 古代には、大宮台地を中心に、周囲の低地を含めた領域に足立郡が設置された。江戸時代には、五街道のひとつである中山道(現在の埼玉県道213号曲本さいたま線、埼玉県道65号さいたま幸手線、埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線の各線の一部等)が大宮台地を縦断する形で整備され、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣の各宿場町が設置された。明治2年(1869年)には浦和に県庁が設置された。また、明治16年(1883年)には中山道にほぼ並行する形で日本鉄道第1期線(現在の高崎線)が敷設された。 このように形成された旧宿場町や鉄道駅を中心に、近代以降、大宮台地では都市化が顕著に起こった。この都市化は、主として東京に近い南部ほど、またしばしば洪水が発生していた周辺の低地に比べて台地上ほど先行したが、やがて東京大都市圏が拡大するにつれ台地北部や周辺の低地にも急速に伝播した。ただし、川口市では旧鳩ヶ谷市域を除いて台地よりも低地で都市化が先行している。 現在では、大宮台地の南部は埼玉県の県庁所在都市であるさいたま市に含まれており、同県における中枢地域となっている。また、埼玉県内で最も都市化の程度が著しい地域といえる。 また、上尾市の開平橋手前から鴻巣市の御成橋先までは、西側を流れる荒川の堤防の役割を大宮台地自体が担っている。冒頭にある北本市内の荒川河川敷の写真からもわかる通り、特に北本市の荒井橋付近から御成橋付近にかけては、大宮台地の縁と河川敷の境界が特に明確に見える状態となっており、この2橋は、対岸の堤防の高さに合わせて、切通して造られた坂を少し下ってから、台地上に直接掛けられた橋を渡る特殊な形となっている(台地内でも高架のため多少わかりづらいが、桶川市内の台地上を横断する首都圏中央連絡自動車道の圏央道荒川橋でも台地の縁と河川敷の境を確認できる)。
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