地域と広域ネットワークの結合と高尾山古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
「高尾山古墳」の記事における「地域と広域ネットワークの結合と高尾山古墳」の解説
高尾山古墳の立地条件を考察すると、単に浮島沼周辺の勢力ばかりに依存しているとは考えにくい、古墳築造から被葬者の埋葬時にかけて、狩野川下流域にも外部との活発な交流を行っていたことが推定される恵ケ後遺跡などがあり、愛鷹山の丘陵の比較的標高の高い場所には足高尾上遺跡群があった。高尾山古墳はこれらの遺跡群をまさに繋ぐような場所に立地している。つまり富士川下流域から浮島沼周辺、愛鷹山丘陵地、そして田方平野付近までの狩野川流域の、性格が異なる集落を背景として高尾山古墳が築造された経緯が想定されている。このように高尾山古墳は東駿河の各地域を繋ぐ位置に立地しており、古墳がある場所そのものに大きな資料的な価値が見いだされ、古墳の現地保存が重要視される根拠となっている。 もちろん高尾山古墳の造営された地は、単に東駿河の地域ネットワークの結節点であるばかりではなく、弥生時代終末期以降活性化する広域ネットワークの中で築造されたという視点も重要である。つまり東駿河各地の性格が異なる集落同士がまとまった地域社会の上に、各地と結びついた広域ネットワークの中で高尾山古墳の造営がなされたと考えられている。そして高尾山古墳や長野県の弘法山古墳といった古墳出現期に、各地でほぼ同時期に築造された古墳は、これまで述べてきたような弥生時代的な社会からの大きな変化を反映した物証であるが、一方ではこれまでの伝統的な社会秩序も維持した上での変革であると見られている。つまり高尾山古墳の被葬者は、前時代である弥生時代を引きずりながらも古墳時代に第一歩を踏み出した存在であったと考えられている。また外部からの一方的な文化の進出や征服といった事態が起きたとも考えにくいとされている。また副葬品の内容からも、弥生時代的なものと古墳時代的なものとの混在が指摘されている。
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