国家との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 08:26 UTC 版)
リッジョらコルレオーネシが敵対するマフィアを一掃し始めたのと時を同じくして、彼らは捜査官や検事など政府関係者らにも牙を向けるようになった。そして、敵対するマフィア構成員はもとより、その家族・親戚、女子供、さらに彼らは自分たちのグループ内のメンバーをも粛清し始めた。彼らのマフィアの上に君臨するという野望を賭けた戦いはマフィアの掟をも無視し、次第に歯止めがかからないようになっていった。 また、あまりに熾烈を極めた抗争により、当局側に保護を求めて寝返るマフィアも続出した。その中で代表的な人物はトンマーゾ・ブシェッタである。彼はブラジルで逮捕されたのちイタリアに護送され、沈黙の掟を破って当局にマフィアの情報を提供した。彼が逮捕された折に開かれていたマフィア大裁判で、多くのマフィア構成員を有罪に追い込むための証人として活躍した。 政府関係者までも抹殺され始めたことを重く受け止めた政府は、テロリスト撲滅で名を上げたカルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ将軍をシチリアにマフィア対策のため派遣する。しかし、将軍は派遣されてからわずか4ヵ月後の1982年9月3日にマフィアによって暗殺された。この暗殺事件に衝撃を受けたイタリア議会は「反マフィア法」を成立させ、マフィア関係者を大量検挙した。 1984年2月10日、パレルモにおいて逮捕されたマフィア構成員476人を裁く「マフィア大裁判」が開かれた。被告にはルチアーノ・リッジョ、ミケーレ・グレコ、ジュゼッペ・カロら大物も含まれており、1987年12月、被告のうち、342人に有罪判決が下った。リッジョ、グレコは終身刑となり、カロは23年の懲役刑となった。 この「マフィア大裁判」が終了してからも、コルレオーネシの勢いは止まらなかった。実質的なリーダーはリッジョからリイナに代わり、彼らは敵対する全ての勢力の一掃に全力を傾けていった。 1980年代から1990年代にかけ、公共工事をめぐる不正を端に首相経験者を含む有力政治家が摘発され逮捕された。その際に司法への報復テロが頻発し、イタリア社会に暗い影を落とした。 1992年5月22日、反マフィア運動を展開していたジョヴァンニ・ファルコーネ判事が爆弾により暗殺され、その数ヵ月後には彼の盟友であったパオロ・ボルセリーノ判事も暗殺された。この2つの悲劇によりパレルモ市民たちは衝撃を受け、大規模な反マフィア運動が巻き起こった。 1993年1月15日、23年間逃亡していたサルヴァトーレ・リイナが逮捕された。彼は逮捕された時、警官たちに「そうだ、私がリイナだ。おめでとう」と言い、警官たちを褒め称えた。 2006年4月11日、リッジョの配下であり、リイナが逮捕された後にコルレオーネシを率いていたと言われるベルナルド・プロベンツァーノが40年以上にわたる逃亡の末、逮捕された。 2007年11月5日、プロベンツァーノの後継者の1人とされていた、サルヴァトーレ・ロ・ピッコロがパレルモ郊外の家で息子らと共に逮捕された。
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