図書館学前半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 10:42 UTC 版)
1923年、マドラス大学はその蔵書を管理するために、大学図書館部門を創設する事とし、担当者の選抜が行われたが、900人いた応募者の中で正規の図書館学課程を修めた者は皆無であった。しかし、彼の提出した書類は、担当者は研究背景を持つべきだという採用委員会の要求を満たした。 彼の図書館学に関する知識は、面接の数日前に読んだブリタニカ百科事典に書かれていたものだけであったが、彼は面接に呼ばれるまで応募した事を忘れ、インドの伝統である採用委員会への働きかけも行わなかったにも関わらず、1924年1月付で司書に任命された。 着任当初、彼はその職務の孤独さに堪えられず、2,3週間後にその苦情を大学当局に訴え、教職に戻る事を要求したところ、大学当局は教職に戻る条件としてロンドンで西洋の図書館学課程を修めて来るよう、命じた。 そこで、当時、イギリス国内で唯一の図書館学課程を設けていたロンドン大学へ留学し、平均より若干良い成績を修めた。 留学中、彼の数学的な思考は、図書館学課程では暗記科目として教えられていた十進分類法についての問題点を見出し、新たな分類法、後にコロン分類法となる分類法を独力で模索し始めた。彼はそれについてのアイデアを、ロンドンの玩具店でメカノを見た時に思いつき、インドへ帰郷する間もそれは研究され続け、乗船している船の蔵書をも再整理してしまうほどであった。 彼は図書館及び司書に対する強い情熱と展望を持って帰国し、マドラス大学に司書として帰任し、20年間勤めた。その間、マドラス図書館協会の設立を支援し、インド各地での公共図書館の設立、及び包括的な国立図書館の設立のために熱心に請願運動を行った。 彼はワーカー・ホリックとして有名で、マドラス大学での20年間、1日に13時間、1日も休むことなく働き、1928年の11月には結婚しているが、その日の午後には職場に戻っている。 彼と妻サーラダーとの間には息子が1人おり、その婚姻関係は彼が亡くなるまで続いた。 マドラス大学での司書としての最初の数年間は思考と分析に費やされ、この期間に彼の最も著名な業績である図書館学五原則(1931年)とコロン分類法(1933年)が作成された。
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