図書館学後半
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マドラス大学で20年間、司書を最後の職業のつもりで務めていたが、兼任していた副学長職との矛盾に堪えられなくなり、54歳の時に辞表を提出。 その後、憂鬱な時期を少し経て、1945年の8月に、ワーラーナシーのバナーラス・ヒンドゥー大学の図書館学の教授に就任し、大学図書館の蔵書目録の作成に励み、4年後に退職するまで10万点以上の図書を分類した。 また、1944年から1953年の間、インド図書館協会の会長を務めたが、取りまとめ役としては優秀ではなく、デリー公共図書館が彼のコロン分類法の代わりにデューイ十進分類法を採用した時、彼はその論争のまっただ中にいた。 その後、1949年から1955年の間、デリー大学の名誉教授となり、弟子のS.ダース・グプターと共に図書館学コースを設置した。 その後、1955年から1957年の間、息子が西洋人の女性と結婚したため、スイスのチューリッヒに滞在し、その間、ヨーロッパの図書館界と交流を深め、多くの支持者を得たが、その正統的でない関係は彼にとっては居心地の悪いものであり、すぐにインドに戻り、バンガロールに居を構えた。 その後、1962年に文書管理研究・研修センタをバンガロールに設立し、5年間、名誉センター長を務めた。 1965年には彼の功績を称えてインド政府からNational Research Professorの称号が贈られた。 晩年、彼は病に伏し、その殆どの時間を病床で過ごした。そして、1972年9月27日、気管支炎を併発して亡くなった。 彼が誕生してから丁度100年に当たる1992年、彼の栄誉を称えて、幾つかの伝記や随筆集が刊行された。因みに、彼自身による自叙伝は彼の生存年中に逐次的に刊行され、その名を『司書は振り返る』と言う。
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