営業譲渡先の模索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 23:48 UTC 版)
11月14日午後、東京の企画部から資金繰りの難航について連絡を受けた河谷頭取は、新千歳空港から羽田空港へ飛び、丸の内のパレスホテルに向かった。ホテルの一室に集った他の取締役から、最悪の場合、翌週11月17日の月曜日には資金がショートし、決済資金を用意できない取引企業が現れる可能性が説明され、現実となれば北海道経済は大混乱に陥る恐れが出た。 パレスホテルから大蔵省に連絡が入り、同省を交えた根回しが始まった。前述の経緯から、拓銀の道内営業譲渡について同省が当初薦めた相手は道銀だった。しかし、合併話の経緯にみる感情論があり頓挫した。次に薦めた相手は、当時札幌に本店があった第二地方銀行の札幌銀行(札銀)だった。道内第4位の小規模行ではあったが、吉野次郎を除く札銀の歴代トップが、ほぼ全員拓銀の元役員出身で、最近では多数のOBを受け入れていた事から行風も似ており、人事交流も盛んであったことに加え、これまで札銀が閉鎖した店舗を拓銀が引き受けた実績があった。このため、大蔵省は札銀への営業譲渡を打診し、札銀側も受け入れに意欲的な姿勢を見せた。 一方、拓銀首脳は札幌銀行を営業譲渡先に選ぶことを極端なまでに拒絶した。背景には元拓銀役員で、当時札銀会長を兼任していた潮田隆頭取の存在があったためである。潮田頭取は拓銀在職中に「個人融資取引を推進すべきである」との持論を展開し、「融資による資金運用は企業先で」と考えていた拓銀首脳陣との間で意見が真っ向から対立。その結果、北海道相互銀行(通称: 道相銀=どーそーぎん。札幌銀行の前身)への出向を命ぜられ、事実上更迭(今で言う報復人事)された経緯があった。道相銀に移った潮田頭取は持論だった個人融資取引を大々的に推進。悲願だった普通銀行転換を果たし、小規模銀行ながら消費者ローンの各種ノウハウを蓄積して大きな収益源として確立したことから、「消費者ローンのパイオニア」として業界をリードするまでに成長していた。 こうした経緯から、拓銀首脳は潮田頭取からの報復を恐れていたため、「札銀への譲渡だけは」と頑なに拒否した。事実、後に北洋への営業譲渡が決まった際、潮田頭取は自らの側近に「あの時奴らが俺の言うことを聞いていれば(=拓銀時代に個人融資の提案が受けいれられていれば)こんなことにはならなかった筈だ」と語っている。 道銀・札銀・複数の金融機関へバラ売りのいずれにせよ、大蔵省サイドには、拓銀に縁もゆかりも無い北洋銀行に営業譲渡を行う考えは全く無かった。
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