名誉回復と顕彰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:56 UTC 版)
武市に関しては、土佐藩内で罪人として処罰された経緯があったが、維新後、有志の盡力により、明治10年(1877年)に名誉回復される。 明治17年(1884年)に元土佐藩士の土方久元・田中光顕・佐々木高行らが中心となって瑞山会が結成されて土佐勤王党殉難者の記念碑建立と武市半平太の伝記編纂が決められた。翌年、高知縣護國神社に「南海忠烈碑」が建立される。 さらに、明治24年(1891年)4月8日に坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎とともに正四位が追贈された。5月8日、東京・九段坂上(靖國神社)において、武市の追贈(贈正四位)奉告式が挙行された。この式典に際し、富子夫人は、実弟の島村笑児を伴って上京し参列。清華家からの代表者として右大臣岩倉具視、旧土佐藩主山内豊範、 旧土佐藩大監察後藤象二郎、板垣退助、佐々木高行、土方久元、田中光顕らを初め土佐勤王党の同志ら朝野の済々多士が参列。山内、板垣、後藤らが神前に深々と頭を垂れ、懇ろに拝したのを見て、富子は感極まって涙したという。式典の後、九段坂上の富士見軒で開かれた直会の席において、武市の親族でもある板垣は「当時の経緯は種々あったとはいえ、土佐藩が瑞山先生を殺した処断は、日本における損失であり洵に誤りで有ったと断言できる」と両者の間に立って心痛の思いを吐露し、後藤も同意した。この一言は、土佐勤王党の同志らの思いを代弁するもので、当時の藩庁側、勤王側、身内側の立場を知る板垣にしか発せられない言葉であったため、一同は永年の溜飲が一時に下がり心から晴々としたと言う。瑞山への取調べが激化した時、板垣は武市を救おうとしたが、藩庁側と意見が合わず「不念の儀あり」と讒言を受けて職を解かれ、左遷されるかのように遠避けられ、江戸で軍学修行を仰せ付けられていた。
※この「名誉回復と顕彰」の解説は、「武市瑞山」の解説の一部です。
「名誉回復と顕彰」を含む「武市瑞山」の記事については、「武市瑞山」の概要を参照ください。
- 名誉回復と顕彰のページへのリンク