名人への道とは? わかりやすく解説

名人への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/29 08:26 UTC 版)

本因坊秀栄」の記事における「名人への道」の解説

1892年明治25年)、「囲碁奨励会日本橋倶楽部奨励会)」を発足当時資産家であった高田慎蔵、及びその夫人民子支援を受け、月々の手当として70円と、自宅近く湯島家屋提供された。後に方円社除名されていた田村保寿(のちの二十一世本因坊秀哉)が入門するなどし、1894年まで続いた。翌1895年から、三段以上を参加資格とした研究会四象会」を発足毎月1回湯島の秀栄宅で開かれ進境著しい秀栄の元に土屋秀元、田村保寿、安井算英の他、方円社若手棋士伊藤小太郎高橋杵三郎大沢銀次郎石井千治関源吉広瀬平治郎田中政喜、岩佐銈などが参加し1898年には当時まだ二段だった雁金準一も特に参加認められ、後に門下となった1898年明治31年八段に進む。1904年明治37年)に高田民子弟子野沢竹朝嫌ったことが理由援助断り、計102続いた四象会は閉会となった時事新報矢野次郎斡旋で「日本囲棋会」の設立進められ、その設立準備会記念碁として秀栄と田村(先)の二番が行われて秀栄が2連勝、これが秀栄最後勝負となった日本囲棋会は翌1905年設立され名誉会員には福沢捨次郎犬養毅渋沢栄一岩崎久弥豊川良平高田民子らがいた。(秀栄の死後解散1906年明治39年)、田村定先保っていた以外、他の棋士を先二以下に打ち込み推され九段昇段名人就位。 1907年明治40年)、前年12月から流行感冒伏せ2月10日享年56没す法名日達本郷丸山本妙寺葬られる。 秀栄門下最強者は田村であったが、秀栄は金銭に汚いなどの理由田村嫌っており、雁金後継者立て意向があったといわれる。しかし秀栄は後継者指名することなく死去し本因坊位をめぐって混乱起きた結局弟の秀元がいったん二十世を継ぎ一年後田村に譲る形で事態収拾している。

※この「名人への道」の解説は、「本因坊秀栄」の解説の一部です。
「名人への道」を含む「本因坊秀栄」の記事については、「本因坊秀栄」の概要を参照ください。

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