名人への道
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1892年(明治25年)、「囲碁奨励会(日本橋倶楽部奨励会)」を発足。当時の資産家であった高田慎蔵、及びその夫人民子の支援を受け、月々の手当として70円と、自宅近くの湯島に家屋を提供された。後に方円社を除名されていた田村保寿(のちの二十一世本因坊秀哉)が入門するなどし、1894年まで続いた。翌1895年から、三段以上を参加資格とした研究会「四象会」を発足。毎月1回湯島の秀栄宅で開かれ、進境著しい秀栄の元には土屋秀元、田村保寿、安井算英の他、方円社の若手棋士の伊藤小太郎、高橋杵三郎、大沢銀次郎、石井千治、関源吉、広瀬平治郎、田中政喜、岩佐銈などが参加し、1898年には当時まだ二段だった雁金準一も特に参加を認められ、後に門下となった。 1898年(明治31年)八段に進む。1904年(明治37年)に高田民子が弟子の野沢竹朝を嫌ったことが理由で援助を断り、計102回続いた四象会は閉会となった。時事新報の矢野由次郎の斡旋で「日本囲棋会」の設立が進められ、その設立準備会記念碁として秀栄と田村(先)の二番碁が行われて秀栄が2連勝、これが秀栄最後の勝負碁となった。日本囲棋会は翌1905年に設立され、名誉会員には福沢捨次郎、犬養毅、渋沢栄一、岩崎久弥、豊川良平、高田民子らがいた。(秀栄の死後に解散) 1906年(明治39年)、田村が定先を保っていた以外、他の棋士を先二以下に打ち込み、推されて九段昇段、名人就位。 1907年(明治40年)、前年12月から流行感冒に伏せ、2月10日享年56で没す。法名日達、本郷丸山本妙寺に葬られる。 秀栄門下の最強者は田村であったが、秀栄は金銭に汚いなどの理由で田村を嫌っており、雁金を後継者に立てる意向があったといわれる。しかし秀栄は後継者を指名することなく死去し、本因坊位をめぐって混乱が起きた。結局弟の秀元がいったん二十世を継ぎ、一年後に田村に譲る形で事態を収拾している。
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