吉川経言養子縁組問題
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「小笠原長治 (次郎右衛門尉)」の記事における「吉川経言養子縁組問題」の解説
長らく石見小笠原氏当主・長旌に後継となる男子がいなかったことから、長旌の養子として吉川元春の四男・吉川松寿丸を長旌の養子としたい旨を、市川春俊を通じて申し入れた。しかし、松寿丸が天正6年(1578年)に死去したため、長治は元春の三男・吉川経言(広家)の入嗣を要請したが、天正7年(1579年)に宇喜多直家と南条元続が毛利氏から離反したことで、南条元続討伐のために元春や元長が伯耆国や因幡国等へ出陣することとなったため、この時は経言の石見小笠原氏入嗣の話はまとまらなかった。 天正8年(1580年)8月、長治ら石見小笠原氏の重臣は合議し、小笠原長秀、小笠原元枝、小笠原長往、小笠原長益、小笠原長治、小笠原長貞、小笠原長扶、小笠原長江、小笠原長秋の9名が加判した連署起請文を提出し、重ねて経言の石見小笠原氏入嗣を要請した。また、翌9月には長秀、長往、長江、元枝、長治の5人が連署書状を市川春俊に送り、元春への取り成しを依頼した。 天正9年(1581年)1月7日、長旌の祖母の反対により話がまとまらないとして、説得に努めるよう長旌から命じられる。同年3月、経言の入嗣に関して吉川氏側は経言の入嗣に納得し、石見小笠原氏側の意向が変わっていなければ、小早川隆景や口羽通良らと談合し、毛利輝元の許可得た上で決定するとの元春の返答が長治と長秋に送られている。しかし、同年6月に輝元の強硬な反対を受け、経言の石見小笠原氏入嗣の話は白紙となった。なお、この時輝元は長治について、さし当たっては毛利氏に忠誠を尽くしているが、本心ではどう考えているか分からず、長治の内心は信用できないと述べている。 その後、小笠原元枝が佐草兵部少輔に宛てた年不詳8月11日付の書状(佐草家文書)において、毛利輝元の命により小笠原長治が自害した旨が記されており、長治自害の時期は養子縁組問題が終息した天正10年(1582年)と考えられている。また、天正10年比定9月28日付で小笠原長旌が井原経信に宛てた書状(庵原家文書)によると、井原経信が長治に加担した子・井原十郎右衛門を勘当した処置を長旌が承認し、今後は井原縁信を取り立てる旨を述べている等、長治に加担した者に対する処置も行われている。
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吉川経言養子縁組問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 17:27 UTC 版)
長旌は病弱であり、実子がいなかったことから、重臣の小笠原長治は吉川氏から養子を迎えようと画策。当初は吉川元春の四男・吉川松寿丸を養子に迎えたいと要請したが、まもなく松寿丸が早世したため、天正7年(1579年)に元春の三男・吉川経言を養子に迎えることを要請。経言も父を押し切る形でこの話に乗った。ところが、天正9年(1581年)、小笠原氏と吉川氏の間で養子縁組の合意がなされ、残るは主君・毛利輝元の承認を受けるだけという段階に至って、輝元が激しく反対したため、この養子縁組は取り止められた。 光成準治はこの養子縁組の話を、長旌からすれば吉川氏から養子を入れて毛利氏一門になることで毛利氏に没収された本領の温湯城の返還につながるという期待から始まり、所領の乏しい吉川氏の庶流である宮庄氏を継ぐことになっていた経言は自己への待遇の低さに対する不満からこれに応じ、一方の輝元は家中での吉川氏の発言力増大と旧尼子方でも最後まで毛利に抵抗していた小笠原氏の家格上昇は他の旧尼子家臣とのバランスを崩すことへの警戒感から反対したと解説する(後に輝元は経言の不満を解消させる為に隠岐国一国を与えることになる)。
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