石見小笠原氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 06:24 UTC 版)
阿波守護職となった小笠原長房 (阿波小笠原氏)の子、長親が弘安の役の軍功によって、石見国邑智郡村之郷を得て、移り住んだ事に始まる。長親は地元の有力国人である益田氏当主兼時の息女を室に迎え、弘安の役の後の不安定な石見国周辺の海岸を警護した。南北朝時代の当主小笠原長胤は武家方に従って活動、川本温湯城を居城とした。戦国時代に入ると石見銀山の支配を巡って対立する大内氏と尼子氏に挟まれ、当主の小笠原長雄はその間を転々とし、最終的には大内氏の後を継いだ毛利氏に仕えた。 天正20年(1592年)に国替えにより出雲国神門郡神西に移封されたことで石見国を去る。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後の毛利氏の防長移封の際には一度毛利氏を離れることとなるも後に帰参し、石見小笠原氏は長州藩士として明治を迎えた。
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