石見タイムズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 14:16 UTC 版)
終戦後、小島は日本の民主化を実現して二度と戦争を起こさないという大望とともに復員し、母の疎開先である島根県浜田市に転居した。父が石見印刷株式会社を経営して小さな新聞を刊行していたことや、かつてオーテス・ケーリが当時の日本を分析し、新しい新聞を作るべきと語っていたことから、小島は一念発起。戦後に復職予定であった横浜正金銀行に辞表を提出し、石見印刷の専務取締役兼主筆となった。当時の超一流の就職先といわれた同銀行を蹴って地方新聞を始める小島は、父を少なからず驚かせた。 1947年(昭和22年)、石見印刷から『石見タイムズ』が創刊され、小島は編集紙面の責任者を務めた。小島の狙いは、アメリカに倣った民主主義を戦後の日本に根づかせることであり、通常の紙面の雑報などは記者陣に任せ、自らは論説や解説に集中した。また、編集の紙面と事業を合わせた企画として、ドレスメーカー山陰女学院の創立、同校の英語学部・商学部の開設、石見地区の都市対抗野球大会の開催、盆踊り大会の開催などで成功をおさめた。1950年(昭和25年)にはこうした事業が販売部数の拡大に繋がることで実売部数7000部を達成し、進駐軍からは「理想的なタウン情報誌」と称賛された。 1953年(昭和28年)、小島は同紙で是非書きたかったテーマとして、自身の投降劇を『反逆者は誰か』と題して連載開始した。しかし当時は未だ、戦地から父や息子の帰還を待つ家が多かったため、投降者としての自分の名は伏せ、「高田清」のペンネームを用いた。この連載は翌1954年(昭和29年)まで続いたものの、大きな反響には至らなかった。 小島は1957年(昭和32年)に東京に転居するまで新聞制作に携わった。新聞自体の評価は高かったが、当時の日本はまだ保守的な考えの人々が多く、日本の民主化という当初の目的は、必ずしも成功には至らなかったようである。
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