右翼の理論家とは? わかりやすく解説

右翼の理論家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:18 UTC 版)

蓑田胸喜」の記事における「右翼の理論家」の解説

1922年大正11年4月慶應義塾大学予科教授となり、若宮卯之助と共に10年間、論理学心理学講義する1925年大正14年11月7日三井と共に原理日本社創立し雑誌原理日本』の刊行始める。慶應義塾では「精神科学研究会」を組織し、そして、同誌上国粋主義観点から、マルクス主義自由主義的な学者知識人批判展開する慶大蓑田受講であった奥野信太郎(後に慶應義塾大学教授)によると、授業論理学についてはほんの少し触れるのみで、マルクス主義攻撃と、国体明徴終始していたようである。試験明治天皇御製を三首書いて出せば及第点与えたという。 1932年昭和7年4月慶應義塾退職し国士舘専門学校教授となる。 貴族院議員であった美濃部達吉辞職させられた、天皇機関説事件に始まる大学粛正運動の理論的指導者であり、滝川幸辰大内兵衛らの追放津田左右吉古代史著作発禁事件も、蓑田批判論文そもそものきっかけである。1934年6月6日東京帝大教授末弘厳太郎治安維持法違反不敬罪朝憲紊乱罪で告発した1936年11月日独防共協定締結後は、1937年4月平沼騏一郎近衛文麿らが顧問務め反共国粋主義国際反共連盟結成され、その評議員一人として反共雑誌反共情報』に寄稿していた。1938年には帝大粛正期成同盟組み対外防共協定呼応した国内対す滅共唱えた1938年2月25日松田共著国家大学東京帝国大学法学部民主主義国家思想対す学術的批判』を刊行

※この「右翼の理論家」の解説は、「蓑田胸喜」の解説の一部です。
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