古代王国の独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
詳細は「アルタクシアス朝(フランス語版)」および「アルメニア王国」を参照 しかし、やがてアルメニア一帯には西からガラティアが、東からパルティアが侵入し、オロンテス朝はヘレニズムの衰退とともに勢いをなくしていった。紀元前200年には、王家の一族でシュニクの豪族であるザリアドレス(ドイツ語版)、そしてその息子アルタクシアスが セレウコス朝に支持されて反乱を起こし、ザリアドレスはソフェーネの、アルタクシアスはアルメニア高原の王権をアンティオコス3世より与えられた。さらに紀元前190年、セレウコス朝がマグネシアの戦いで共和政ローマに敗れると、2年後にアルタクシアスはアパメイアの和約によって正式にアルメニアの王号を与えられた。 こうして誕生したアルタクシアス朝は、史上最初のアルメニア人による独立国家「アルメニア王国」となった。建国後、アルタクシアスはすぐさま領土の拡張に乗り出し、東はメディア、北はセヴァン湖北西、西はエルズルムまでを支配下に入れた。そして、これらの領域ではアルメニア語が共通語として使用されるようになった(ただし、公的な書き言葉にはペルシア語とギリシア語が使用されていた)。アラクス川左岸にはヘレニズム様式による新首都アルタハタが築かれ、その規模と防備はハンニバルが造営を助けたとの伝説も生んだ。その後、パルティアの伸長によってアルタハタは交易都市として発展し、これによりアルメニアは再度ヘレニズムの影響を受けた。 アルメニア王国は、アルタクシアスの孫である「大帝」ティグラネス2世の治世にその絶頂期を迎える。紀元前95年に即位したティグラネスは、ほどなくして西部のアルメニア人によるソフェーネ王国(ロシア語版)を併合し、東西アルメニアの統合を成し遂げた。続いて紀元前88年にはパルティアに侵入しアトロパテネ、オスロエネ(英語版)など北メソポタミアを、紀元前83年までにはイベリア、アルバニアなどカフカース諸地域を服属させた。同年には北パレスチナにも出兵し、最終的にカスピ海から地中海に至る120の国々を支配下に収めた。そして、ティグラネスはパルティアから「王の王」、セレウコス朝から「神聖王」の称号までをも授けられた。 しかし、アルメニア王国の崩壊を招いたのも、同じくティグラネスの治世であった。ティグラネスはポントスの王女クレオパトラ(ドイツ語版)を王妃に迎えることで、同盟関係となったポントスに遠大な西部国境の安全を任せようとした。ところがそのポントスがローマを相手にミトリダテス戦争を開始したため、アルメニアも対ローマ開戦を余儀なくされてしまった。さらに、判断力の低下していた晩年のティグラネスは側近の忠告にも耳を貸すことはなくなっていた。また、急激な領土の拡張にもアルメニア軍の練度は追いついていなかった。紀元前69年、ティグラノケルタの戦いでアルメニア軍はローマ軍に大敗し、3年後にアルメニアはローマに降伏した。その後、代償としてアルメニアは拡張領土のすべてを失った。
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