古代の謀反・謀叛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:20 UTC 版)
古代日本の大宝律令・養老律令の律の規程では、「謀反」はぼうへん・むへんと発音して、「謀叛」とは区別されていた。「謀反」とは国家(政権)の転覆や天皇の殺害を企てる罪のことであり、あらゆる罪の中でも最も重く斬刑などに処せられる八虐の筆頭であった。一方「謀叛」はいわゆる天皇に危害を加えるなどの大逆行為を含まない国家(政権)の転覆及び敵国への内通・亡命などが対象となり、こちらも八虐の第三とされていた。7~8世紀に政争の末、謀反・謀叛の罪によって殺害された貴族は少なくない。 日本では律の規定と実際の刑罰に乖離があり、律令制全盛期でも、廷臣の殺害による政権奪取や、蝦夷や隼人の反乱が反・謀反とされていた。当時から謀反・謀叛・大逆の語には混用があり、平安時代後期になると謀叛と謀反はともに「むほん」と読む同義語になった。 奈良時代と平安時代初めに、謀反を起こした(とされた)人はほとんど死刑になったが、その対象者と縁座の範囲・量刑は政治的判断で左右された。斬と絞の区別は無視され、主犯だけが死刑になり、縁座者への刑は律の規定より軽くなる傾向があった。 平安時代頃から、中央貴族に対する死刑は好まれなくなり、死刑に繋がる重い刑罰である謀反・謀叛はほとんど適用されなくなる。また、陸続きの隣国が存在せず、また天皇を君主とした国家体制が続いてきたこともあり、隣国との通謀や亡命の可能性が低く、天皇を抜きとした政権転覆も考えにくかったためにこの頃より謀叛という語を謀反と同じ意味で用いられるようになった。
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