北村と落語協会分裂騒動
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「北村銀太郎」の記事における「北村と落語協会分裂騒動」の解説
「落語協会分裂騒動」も参照 三遊亭圓丈によれば、大名人六代目三遊亭圓生にとって、北村は「唯一、頭の上がらなかった人」であった。 圓生、圓生一門とそれに賛同する噺家による、いわゆる落語協会分裂騒動について、北村は圓生から落語三遊協会の会員名簿を見せられた最初の一瞬は「なかなかいいメンバー」だと感じたものの、ほどなく「メンバーの底が」「いかにも浅い」ことに気づき、鈴本演芸場が承知していたのに対して反対の意を示した。北村曰く、圓生が「メンバーをもう少しふやして底を厚くしてくれれば」、落語三遊協会を新しい協会として認めるところであったが、圓生が色物や落語芸術協会、上方落語からメンバーを呼べなかった、そういう努力をしなかったことが落語三遊協会不承知の理由とした。この点に関して北村は、圓生の「一生の大失敗ですよ。」と断じている。 やがて、圓生は1978年(昭和53年)5月24日に落語三遊協会結成の記者会見を開くが、これを受けて北村は翌5月25日に他の席亭を集めて会議を行い、落語三遊協会と落語協会の一本化を勧め、一本化しなければ受け入れられないという決定を行った。一週間後の5月31日、圓生はこの日開催のTBS落語研究会の場で、落語協会会長の五代目柳家小さんに退会届を出し、一門そろって落語協会を退会した。北村は席亭会議から5月31日までの間のいずれかに、圓生に落語協会、落語三遊協会および席亭一同の三者による調停会議を神田明神下の料亭「神田川」で開くから出席するよう電話をかけ、会議は調整の結果、6月1日に行われることになっていた。ところが会議当日、圓生と五代目三遊亭圓楽の姿は「神田川」にはなく、しかも連絡なしの欠席であった。圓丈は、圓生は「頭の上がらない」北村の調停に乗りたくないばかりに5月31日に退会届を出したとしている。圓生と圓楽の無断欠席は北村ら席亭の心証に悪い印象しか与えず、席亭一同は憤激した。調停会議では、古今亭志ん朝ら圓生の同調者一同が詫びを入れて一応は復帰となったが、小さんらから起こった「香盤を下げろ」との声に対しては、北村は落語協会全体の問題だととらえ、協会がだらしがないからこういうことが起きる、小さんは会長を辞め、副会長や理事も総辞職すべきだと主張。そのうえで志ん朝ら脱会者の香盤を脱会前のままにして退会届を北村預けにするよう小さんに提案し、小さんはこれを了承した。 1年と少しが過ぎた1979年(昭和54年)8月1日、北村は圓生、圓楽、小さんおよび上野の席亭と新宿末廣亭で会合し、慶弔の席ではおつきあいを続けていくことを確認した。それから1か月過ぎた9月3日、圓生は79歳の誕生日に津田沼の一角で急逝。上野動物園のジャイアントパンダ「ランラン」の死と重なり、一部メディアでは圓生の「香盤」はランランより下となってしまった。これについて北村曰く、「一日ずらしやあよかつたんだ、前か後に。そのくらゐの芸を見せたつてよかつたのにさ。あのぐらゐの芸をもつてすれば、そのくらゐ出来ただらうに。それとも、その程度の芸も出来ないほど弱つちやつてたのかな。」。2か月後の11月8日には圓生夫人の山崎はなが北村のもとを訪れて、圓楽門下以外の圓生一門の落語協会復帰に手を貸してくれるよう依頼。小さんにも頭を下げた結果、圓楽門下以外の圓生一門は1980年(昭和55年)2月上席から落語協会に復帰した。 北村は、騒動の背景に香盤の問題があったとし、香盤にかかわる真打の問題にしても、真打ちに昇進できる実力をもった者しか昇進させない圓生の考え方とは異なり、「前座5年、二つ目10年で真打、あとは自分の力で勝負しろ」という考え方であった。
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