北村の噺家評(昭和55年当時)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 07:44 UTC 版)
「北村銀太郎」の記事における「北村の噺家評(昭和55年当時)」の解説
北村が選ぶ昭和期の大御所の順位は文楽(黒門町)、志ん生、三代目三遊亭金馬、圓生で、特に黒門町の首位はゆるぎないもので、「芸と人間性の両面に秀でた噺家」と評価。圓生は「芸のレベルまで人間が行つていたら、明治の大圓朝以来の噺家」と評する。下の世代のうち、俗に「落語四天王」の面々では志ん朝が何より筆頭で、立川談志と圓楽は「自分を作っている」と一枚下であったが、さらに踏み込むと、談志は入りの良くない池袋演芸場に頻繁に顔を出す点は評価しながらも「歪んだ感じで進んでゆくことからは免れ得ない」、圓楽に至ってはテレビで見た『真景累ヶ淵・豊志賀の死』での仕草が滅茶苦茶なのを見て「何年たつたつて圓生さんの域には達しさうにないよ」と斬って捨てた。残る五代目月の家円鏡は扱いが少ないが、「懸命に勉強し出したから偉いよ」。 四天王に続く噺家としては十代目柳家小三治、九代目入船亭扇橋の名を挙げ、昭和55年当時の若手では、落語協会では春風亭小朝、落語芸術協会では初代三笑亭夢丸を高く買っており。特に小朝に対してはカミナリを落としつつも、二つ目時代から中入り後に出番を作るなど目をかけていた。金回りと身なり部門の横綱は六代目春風亭柳橋で、部門の離れた二番手は志ん朝であった。しかし、北村が実際に接した噺家の中で段違いの総合トップは、新宿末廣亭経営というターニングポイントを与えるなど、亡くなるまで畏敬していた左楽である。北村を取材した冨田均によれば、左楽に関する話は取材ノート23ページ分におよび、16ページ分の黒門町よりも多かったという。
※この「北村の噺家評(昭和55年当時)」の解説は、「北村銀太郎」の解説の一部です。
「北村の噺家評(昭和55年当時)」を含む「北村銀太郎」の記事については、「北村銀太郎」の概要を参照ください。
- 北村の噺家評のページへのリンク