北京オリンピック銅メダル
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「永井清史」の記事における「北京オリンピック銅メダル」の解説
2008年2月24日に別府競輪場で行われた東西王座戦の西日本王座戦決勝(9着)を最後に本業の競輪を休業し、以後は北京オリンピックまで、自転車競技大会しか出場しなかった。迎えた北京オリンピックでは、チームスプリント及びケイリンに出場することになった。8月15日に行われたチームスプリントでは、長塚智広(第一走)、渡邉一成(第二走)、永井(第三走)のトリオで挑み、予選タイムは44.545秒で同順位は6位。しかし、1回戦にあたる順位決定予備戦でドイツに敗れたことから、予選の6位という順位がそのまま確定順位となった。 8月16日に行われた『ケイリン』。予選3組に登場した永井だが、最終1センター付近で、イタリアのロベルト・キアッパの強引な押圧が影響して4着入線(その後、キアッパが降着処分を受け、3着)に止まり、敗者復活戦回りとなった。しかし、1着選手だけしか勝ちあがれない敗者復活戦では堂々と1周半近くを逃げ切って勝ち、準決勝に進出。準決勝では、優勝候補の一角に目されていたオランダのテオ・ボスら2名が1周回目で落車するアクシデントが発生。ペーサー(誘導員)退避前の落車ということもあり、再発走レースとなったが、落車したボスら2名は再発走レースを棄権。そのため、永井を含めた4名での戦いとなった。結果は敗者復活戦同様、永井は1周半近く逃げ、最後はイギリスのロス・エドガーに交わされたものの2着に入り、オリンピックにおけるケイリン種目では、日本人選手初の決勝進出を果たした。 迎えた決勝では当初最後方の6番手に位置していたが、ペーサーが退避した残りあと3周通過付近より一気に前団へと押し上げ、残りあと2周付近では先頭位置に立った。一方、この位置から改めて先頭位置に入ることになった、イギリスのクリス・ホイだけを前に入れ、残りあと1周付近ではいわゆる「番手勝負」となったが、その後、優勝することになるホイに道中千切れ、ゴール寸前では力尽きた格好となって銀メダルのエドガーにも交わされたが、3位に入り銅メダルを獲得した。なお、オリンピックでは、現役の競輪選手としては3回目(団体競技での獲得を含む)のメダル獲得となった。 また1996年のアトランタオリンピックでの十文字貴信以来となる個人種目でのメダル獲得となったことから、KEIRINグランプリ出場選手選抜方法の2項にある夏季五輪の個人メダリストに優先出走権を与える規定により、12月30日には平塚競輪場で行われたKEIRINグランプリ08への出場(結果は8着)を果たし、この出場により2009年はS級S班格付けとなった。 2009年は4月に佐世保競輪場で行われた共同通信社杯競輪春一番にS級S班枠で出場し、共同通信社杯が年度2回開催に移行してから初の優勝者となり、自身にとっても初のGII優勝となった。この年の終盤には同県の先輩である山口幸二と年間獲得賞金9位を争うことになったが、最終的には永井が滑り込む形でKEIRINグランプリ09の出場権を手に入れ、加藤慎平と『闘心會』ラインを組むことになったが、見せ場なく7着となった。
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